南留別志229
荻生徂徠著『南留別志』229
一 書状に不斜(ななめならず)といふ詞、何に本づけるにか。いぶかし。法帖に「いなや」といへる事を、不耶とかけるをよみ兼ねて、義をあやまれるにや。狛の近家が見せたる幽蘭譜(ゆうらんふ)は、隋朝の書にて、書跡も千年ばかりのものと思はる。其内に斜臥中指といへる、斜の字を耶にかけり。邪と斜と通ひて、又邪と耶と通へるを、音の異なるをもわきまへず、皆通はしたるなるべし。
[語釈]
●不斜 ひとかたならず、の意。ひとかたは一方。古語で、普通という意味。不の打ち消しがついて、普通ではない。
●いなや 名詞「いな」に係助詞「や」の付いた「健在なりや否や」などの「否や」の一語化。
●幽蘭譜 『碣石調幽蘭第五』(けっせきちょう ゆうらん だいご)。現存する最古の古琴の楽譜。通常の漢字を使った「文字譜」という方式で記している唯一の例でもある。『碣石調幽蘭』は日本の神光院旧蔵(現在は東京国立博物館蔵)の写本が唯一の楽譜であり、日本の国宝に指定されている。中国で失われ、日本にのみ残る佚存書。清末の『古逸叢書』によって中国でも知られるようになった。『碣石調幽蘭』の解釈は荻生徂徠が行い、現在の復元演奏に際しても参考にされる。「幽蘭」(序の題の下に「一名倚蘭」と記す)は琴曲の一種で、『楽府(がふ)詩集』巻58に「猗蘭操、一曰幽蘭操」として見える。蔡邕(さいよう)の『琴操』には、孔子が諸国を放浪して用いられず、魯に帰るときに、ひっそりした谷に蘭が咲いているのを見て、自らが用いられないことを蘭に託して猗蘭操を作ったという伝説を載せる。『碣石調幽蘭』の楽譜は後世の琴譜と異なり、通常の漢字で記されており、非常に冗長である。これを文字譜と呼ぶ。タブラチュアの一種で、音高を記すのではなく、どの指でどこを押さえてどのように弾くかを言葉で説明している。唐代以降は減字譜が発明され、文字譜は使われなくなった。『碣石調幽蘭』は現存する唯一の文字譜の例である。
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