政談172

【荻生徂徠『政談』】172

 ●借貸の道の事

 借貸(かしかり)の道塞がるというのは、近年、借金に関する訴訟の多くは当事者間で解決すべき事として訴訟を受理しなくなったため、金銀は金持ちの元にとどまって世間に流通しなくなった。そのため金銀の効果が薄くなり、世間が困窮している。昔、金銀を貨幣としてまだ使用していなかった時代は銭だけであった。銭という文字はもとは泉という字だった。泉が地中を流れ行くごとく世間を駆け回ることから、世間を潤すさまを象(かたど)って泉と名付けたのを、後世に銭という文字に書き換えた。されば、金銀も銭のように世間を駆け回るのは、金銀の徳による。金持ちでも始終金を手元に置くことはしない。大体は手形にする。また、質物となることもある。実物の金銀は一カ所に定住せず、諸方を巡り歩くゆえ、百両の金は十万両余りの金ともなり、書き付けの上では十万両余でも、実際に金を集めてみれば僅か百両の金しかない。これが金銀の姿である。ゆえに、金銀の流通量が減少し、その上借貸の道が塞がれてしまうと、世間は金銀不足になり、人々が難儀するのは当然である。


[解説]享保4(1719)年、幕府は金銭の貸借に関する訴訟は受理しないことに決めた。あまりに訴訟件数が多く、その他の訴訟の妨げになっていることから、金銭問題は当事者間で話し合い解決するようにという触れを出した。江戸時代は訴訟が実に多く、享保3年には町奉行に持ち込まれた訴訟が実に35000件。このうち金銭問題が33000件を占めるといった状態。民事は奉行自身が裁くことはほとんどなく、吟味与力ら下僚が担当したものの、わずか数十人しかいない与力で金銭問題33000件というのはとても無理。それでも懸命に処理したことから、今で言う過労死になった者もおり(奉行自身が過労死した例もある)、江戸時代、町奉行所は今で言うブラックな職場状態でした。そこで、大岡越前らが吉宗に相談し、金銀相対済令(きんぎんあいたいすましれい)を公布し、借金がもとで殺人など刑事事件に発展したものを除き、紛争状態のものは当事者間でよく話し合って解決させるようにし、奉行所では取り扱わないことにした。当事者間といっても、町人や職人らはそれぞれ町役(民間人だが、奉行所のみなし公務員として町の行政、民生の一端を担う)がおり、町役らが間に入って解決させるようにした。この結果、翌年にはおよそ1万件ほど訴訟の数が減ったものの、金の貸し借りは、借りた側は容易に返済できないし、貸した側はなにがなんでも取り返そうとし、金がないなら布団でもかまどの灰でも取れるものはなんでも奪おうとするから、示談など無理。さらに、時代劇の素材としてよく使われるように、借金の証文の変造(「金一両」とあるのを「金十両」とするような例)や不当な高利などが横行し、明らかに違反であれば刑事として重罪にできるものの、どう調べても(現代に比べれば鑑識技術などとても及びもつかない)作為があると認められないものもあり、奉行所でも無理に悪人を仕立て上げることはできないから、とにかく関係者でなんとかカタをつけろということに。結局、示談が成立したのはおよそ三分の一程度で、あとはこじれて訴訟ということに。大坂でも年間5000件の訴訟がありました。

 画像は中国の漢代の銭「貨泉」。


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