政談102

【荻生徂徠『政談』】102

(承前) 具体的には、書籍や長崎の唐物の値段で知ることができる。城下に集まって住むようになり、家屋がおびただしく、北は千住から南は品川まで連なっている。このような状況だから、どのようなものも城下では手に入るし、大層なものでもたちまち調うことができて、便利なことこの上ない。城下は万事につけ自由な所であるうえに、せわしない風俗と、取り締まるが制度がないことの二つがあるために、武家たちは米を尊ぶ心が失せ、金を大切に思うようになったため、身上をすべて商人に吸い取られ、武家は日々困窮する状態である。


[注解]この段は以上。もともと自発的に始まった参勤を制度化したために大名とその家来たちが江戸に集まり、生活に必要なものを求めることから商人、職人たちも集まってきた。幕府では江戸は政治都市にするつもりだったのが(といっても、明確にそのような構想があったわけではない)一大消費地となり、米と品物の物々交換は遠い昔のこと。すでにお金が支配する世となり、商人が勝手に値段を決めたり上げ下げし、これには将軍吉宗などは頭を痛め、大岡越前らに命じて商人たちが価格協定を結んだり操作させないように厳命するものの、面従腹背もはじめのうち。次第に言うことを聞かなくなり、結局、吉宗の代では解決できなかった。徂徠の晩年がこの時期にあたり、本書を通じて、江戸に武家を集中させる制度を止めて、それぞれの知行所、領地に定住させることを説いた。幕府としては、特に外様大名を領地に定住させてしまうと、その動きが見えにくくなり、特に外様の多い西国では外様が結託して幕府転覆を図る恐れがあると警戒し、参勤の制度は幕末まで止めることがなかった。但し、幕末に向けて次第に江戸詰めの期間を短縮し、本国にいる期間を長くするといった緩和策をとったものの、もはや江戸の街は消費によって成り立つ状態から脱却することなくこんにちに至っています。明治初頭、東京を首都としてどのようにしたらよいか、新政府と東京府はいろいろな識者たちに意見を求めたり構想を練ったものの、問題は、長く住んでいる庶民たちの扱い。西洋に伍する首都の顔として銀座は一早く近代的な街にしたものの、日本橋などは抵抗が強く、森鴎外らのように政治家、官僚らと庶民は今までどおり共生すべきと説き、庶民はすべて東京の市外へ出してしまうべきという強硬論は実業家ら限られた者しか支持せず、そもそも新政府は薩摩、長州といった江戸以外の田舎者たちの集まりではないかという古くから江戸・東京に住む者たちの批判は道理であり、徂徠が江戸幕府を開いた時に制度や展望を確立すべきだったという嘆きは実に関ケ原の陣以降現代にまで及んでいるわけです。市場を築地にするか、豊洲にするか、といったゴタゴタもそうで、いったい東京はどういう都市にするのかといった明確な規定や国民の理解がないため、すべてが特定の者たちによる利権と映り、実際、そういう面が非常に強い。


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