身分制度(10)

【身分制度】10

 武士が武士でなくなった者が浪人(身分上は庶民)となったように、農民や町人でありながらその本業、家を捨てた者を無宿と呼びました。時代劇でよく出る無宿人ですね。

 無宿の多くは臨時雇いとして他の身分の家に住み込み、そのまま本職を放棄してしまったり、犯罪をやらかして逃げ回る者などです。

 農民の場合、農閑期に出稼ぎで江戸や大坂に出て、武家の中間(ちゅうげん)・若党になったり、商家で奉公人として勤めることがよくありました。これを斡旋するのが口入屋(くちいれや)です。

 ちなみに、江戸の者でも、たとえば娘たちは江戸城大奥勤めをしたり(あくまで下働き)、商家へ奉公したりしました。大奥勤めは行儀作法をはじめ、茶や生け花、書なども教わるため、結婚のためのいい修業の場として活用され、大奥勤めをしたというのは経歴に箔がつくことから、大いに流行ったものです。大奥そのものは閉鎖された空間ですが、女性にとっては逆に入り易く、女学校のように男性の目を気にせず打ち込むことができました。下働きは将軍の目にとまるといったこともないので、その点では気が楽でした。正式な大奥の中の人だと、なんとかお目にとまろうと必死だったし、互いに牽制し合ったり邪念渦巻く世界でしたが。

 江戸や大坂に期間限定で出稼ぎに来た者たちは、それが済むと故郷へ戻る。しかし、都会に慣れるに従い田舎暮らしに戻るのが嫌になり、手にした小銭で遊びを覚えると、そのまま居ついてしまう者が出てきた。辛い労働よりも、面白おかしくここにいるほうがいい。しかし、期限が来たら勤めは辞めさせられます。そこで、辞めたあとに無頼漢の仲間に入ったり、辞める直前に主人や店の金品を持ち逃げして、そのまま無宿人となる。こういうケースが増えた。

 また、実家で家業をしていた者でも、いろいろな理由からそこに居ることができなくなって逃げ出し、無宿となる者も。当時は無宿になると人別帳(戸籍)に登録されないので、年貢などの義務から解放されるといった皮肉なことがあったものの、そのかわり無宿人の取り締まりは厳しく、発見、拘束するとただちに本国に送還させ、代官らに引き渡した。処罰はいろいろで、罪人として伊豆七島へ島流しにしたり、佐渡の銀山で水替え人足をさせたり(これは重労働で劣悪な環境から、病気になり、死ぬ者が多かった。そのことからここは地獄送りと恐れられた。銀採掘のため掘った隧道は絶えず水が出たため、これを汲み出す係が必要だった)、江戸だと車善七に引き渡して「非人」にしたり。しかし、時代が下るにつれて、無宿人は総じて働くことが嫌いな性格ということがわかり、そのために授産施設で改めて労働の意義とありがたさを教え、手に職をつけさせてそれで正業に就かせるといった前向きな方針に変化し、無宿人と見れば捕らえて懲罰にかけるといった初期の荒々しさは見られなくなりました。もちろん、藩によっては厳しい所もあり、いろいろですが。

 授産施設=人足寄場(にんそくよせば)はかの長谷川平蔵が時の老中、松平定信に進言して開設、やがて各地にも作られ、住所不定無職の者たちの再出発に大いに効力を発揮しました。なにしろお上が身許保証人となるのだから、間違いがない。平蔵は平蔵で無宿人たちの抑圧された心情をよく理解しており、一度は悪さをして飛び出したものの、後悔して元にもどろうとしても社会が受け付けず、結局流れ者として悪事を重ねるしかない。これを食い止めるには、決まった場所に住み、自活できるだけの収入が得られるようにさせること。こういったことにはとても気が付く人でした。当時は今よりよほど自活しやすかったからお上もやりやすかったものの、今は再就職も困難なら、経歴・職歴に不審なところがあると(一定期間が空白であるとか、正業に就いたことがない、など)、それだけで断られる。この点では、当時のほうがよほど過去にはこだわらず、いま、そしてこれからどうするのかを重んじたものです。

 しかし、武士の世界は厳しかった。ひとたび脱藩すると、追手がどこまでも探索し、同時に各藩に回状を配って、見つけ次第すぐ捕らえて送り返すよう依頼した。国際刑事警察機構に頼んで国際手配するのと同じです。脱藩者は厳しく詮議された上に処刑されるのが当然。ただの浪人と違い、脱藩者は誰かと結託して藩や幕府の転覆を図る狙いありとみなされたからです。幕末には実際に倒幕のために脱藩した者が次々と出たわけですが。

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