1946年1月4日
1946年1月4日 昭和21年
【内 閣】
幣原喜重郎内閣
総理 幣原喜重郎/外務 吉田茂/内務 堀切善次郎/大蔵 渋沢敬三/陸軍 下村定/第一復員 幣原喜重郎(兼)/海軍 米内光政/第二復員 幣原喜重郎(兼)/司法 岩田宙造/文部 前田多門/厚生 芦田均/農林 松村謙三/商工 小笠原三九郎/運輸 田中武雄/無任所 小林一三(戦災復興院総裁)、松本烝治(憲法問題調査委員会委員長)、次田大三郎(兼)/内閣書記官長 次田大三郎/法制局長官 楢橋渡/内閣副書記官長 三好重夫
【宮中主要官】
内大臣 木戸幸一/宮内大臣 石渡荘太郎/枢密院議長 平沼騏一郎/枢密院副議長 清水澄
【軍部高官】
[陸 軍]
陸軍次官 若松只一/軍務局長 吉積正雄/参謀総長 梅津美治郎/参謀次長 河辺虎四郎/教育総監 下村定
[海 軍]
海軍次官 多田武雄/軍令部総長 豊田副武
【植民地高官】
樺太庁長官 大津敏男/南洋庁長官 細菅戊子郎
【東京都長官】
西尾壽造
【首 長】
大阪府知事 新居善太郎/大阪市長 中井光次/京都府知事 木村惇/京都市長 篠原英太郎/北海道庁長官 持永義夫/青森県知事 金井元/岩手県知事 宮田為益/秋田県知事 池田欽三郎/宮城県知事 千葉三郎/山形県知事 村山道雄/福島県知事 増田甲子七/茨城県知事 友末洋治/栃木県知事 相馬敏夫/群馬県知事 高橋敏雄/千葉県知事 生悦住求馬/埼玉県知事 関外余男/神奈川県知事 藤原孝夫/山梨県知事 齋藤昇/新潟県知事 畠田昌福/富山県知事 吉武恵市/石川県知事 伊藤謹二/福井県知事 宮田笑内/長野県知事 物部薫郎/静岡県知事 菊池盛登/愛知県知事 福本柳一/岐阜県知事 野村儀平/滋賀県知事 稲田周一/奈良県知事 小田成就/三重県知事 小林千秋/和歌山県知事 小池卯一郎/兵庫県知事 齋藤亮/岡山県知事 安積得也/広島県知事 楠瀬常猪/山口県知事 岡本茂/鳥取県知事 林敬三/島根県知事 伊藤清/香川県知事 田中省吾/徳島県知事 岡田包義/愛媛県知事 豊島章太郎/高知県知事 永野芳辰/福岡県知事 曽我梶松/佐賀県知事 沖森源一/長崎県知事 永野若松/大分県知事 細田徳寿/宮崎県知事 安中忠雄/熊本県知事 平井章/鹿児島県知事 龍野喜一郎/沖縄民政府・沖縄諮詢会委員長 志喜屋孝信
GHQが、軍国主義者・超国家主義者の公職追放と超国家主義団体の解体を指令。
1月4日附連合国最高司令官覚書「公務従事に適しない者の公職からの除去に関する件」により、以下の「公職に適せざる者」の追放することとなった。
1.戦争犯罪人
2.陸海軍の職業軍人
3.超国家主義団体等の有力分子
4.大政翼賛会等の政治団体の有力指導者
5.海外の金融機関や開発組織の役員
6.満州・台湾・朝鮮等の占領地の行政長官
7.その他の軍国主義者・超国家主義者
上記の連合国最高司令官覚書を受け、同年に「就職禁止、退官、退職等ニ関スル件」(公職追放令、昭和21年勅令第109号)が勅令形式で公布・施行され、戦争犯罪人、戦争協力者、大日本武徳会、大政翼賛会、護国同志会関係者がその職場を追われた。この勅令は翌年の「公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令」(昭和22年勅令第1号)で改正され、公職の範囲が広げられて戦前・戦中の有力企業や軍需産業の幹部なども対象になった。その結果、1948年5月までに20万人以上が追放される結果となった。
公職追放者は公職追放令の条項を遵守しているかどうかを確かめるために動静について政府から観察されていた。
追放の事例
多くの者が1951年の第一次追放解除で、残りの者も1952年には、「公職追放令廃止法」により復帰した。(ただ今、GHQによるおもな公職追放者一覧をUP中。その後の日本に害をなした者が多く、重要なのでできるだけUPします。1日かかる予定。)
[政 界]
赤尾敏 -保守政治家、右翼活動家、思想家、作家、衆議院議員。1951年解除後、大日本愛国党初代総裁に就任。
赤城宗徳 - 護国同志会の会員であったため、1946年1月から1951年8月まで公職追放。追放解除後、農林大臣、官房長官、防衛庁長官などを歴任。
池田成彬 - 三井合名理事、日本銀行総裁、第1次近衛内閣大蔵大臣、1945年A級戦犯容疑者に指定。翌年指定解除になるが、公職追放される。1950年追放解除を果たせぬまま死去。
石井光次郎 - 衆議院議員。戦時中、朝日新聞の取締役を務めていたため、衆議院議員転身後の1947年、商工大臣在任中に追放。1951年に解除されると、朝日放送社長を経て政界に復帰。後に衆議院議長。
石橋湛山 - 政治家、ジャーナリスト。戦前からの東洋経済新報社主宰を理由として、大蔵大臣在任中の1947年に公職追放。戦時中も一貫して軍部を批判し続けていた石橋の追放には厳しい批判が続出した(石橋が反GHQであった、名声を高めている事に対する吉田茂の追い落とし工作であるなどと憶測も飛んだ)。1951年追放解除。1957年に内閣総理大臣に就任。
石原莞爾 - 陸軍軍人、満州事変を指揮した人物。極東国際軍事裁判山形県酒田市出張法廷で重要参考人として出廷したが、石原の主張は極東国際軍事裁判を認めず、そしてトルーマンとマッカーサーを批判した為と軍国主義者と理由で1948年(昭和23年)1月に追放され、翌1949年(昭和24年)8月15日に追放解除しないまま死去。
市川房枝 - 婦人運動家、参議院議員。大日本言論報国会の理事であったため。1947年に追放。1950年、追放解除。
植村甲午郎 - 農商務官僚、のち企画院次長。国家総動員法制定を指揮。日本経済連合委員会(現・日本経団連)会長在任中の1947年追放、1951年解除・復帰。
大達茂雄 - 小磯内閣で内務大臣。1946年追放、1952年解除。復帰後は第5次吉田内閣で文部大臣。
緒方竹虎 - 朝日新聞主筆。小磯内閣情報局総裁。1945年A級戦犯指定(のち不起訴)、翌年公職追放。1951年解除。第5次吉田内閣副総理。
小倉正恒 - 住友の6代目総理事、第2次近衛内閣で国務大臣、第3次近衛内閣で大蔵大臣。1951年に追放解除。
唐沢俊樹 - 内務省警保局長、阿部内閣で法制局長官、貴族院勅撰議員。東條内閣で内務次官。天皇機関説事件や大本弾圧に関与。1951年に追放解除、第1次岸内閣で法相。横浜事件を陰で指揮したもと言われる。
渋沢敬三 - 日本銀行総裁、幣原内閣で大蔵大臣。渋沢栄一の孫。1946年に追放、1951年、追放解除。
膳桂之助 - 経済安定本部総務長官、物価庁長官。1947年第1回参議院議員通常選挙で当選するが、その直後に公職追放され、当選を辞退。1951年8月追放解除、同年11月25日死去。
灘尾弘吉 - 終戦時の内務次官。1947年に公職追放。1951年、追放解除。のち文部大臣、衆議院議長。
羽田武嗣郎 - 朝日新聞記者を経て政治家。戦時中は大政翼賛会に参加。1952年、追放解除。羽田孜元首相の父。
鳩山一郎 - 政治家。統帥権干犯問題を発生させて軍部の暴走を招いたことによる。1946年に追放、1951年に追放解除。1954年、内閣総理大臣。
東久邇稔彦 - 陸軍大将、内閣総理大臣。1947年皇籍離脱、その直後に梨本守正ら軍歴のある元皇族とともに公職追放、1952年追放解除。
町田忠治 - 立憲民政党総裁。農林大臣。戦時中は翼賛政治会顧問。1945年日本進歩党総裁に就任するが、1946年1月公職追放。同年11月12日死去。
松野鶴平 - 立憲政友会幹事長。米内内閣鉄道大臣。1946年公職追放。選挙区には三男頼三 が身代わり立候補。追放中は吉田茂の政治顧問。1951年追放解除。翌年の参議院補欠選挙で政界復帰。のち参議院議長。
松本治一郎 - 政治家、部落解放運動活動家。1946年に公職追放されるが一旦解除、しかし1949年に再び追放。1946年の追放理由は翼賛選挙で推薦議員だったためで、1949年の追放理由は参議院副議長としての「反皇室的」言動が吉田茂に睨まれたためといわれる。1951年追放解除。
三木武吉 - 報知新聞社社長。1942年の翼賛選挙では非推薦で立候補して当選。1945年の日本自由党の結成に参加。翌年の総選挙後、衆議院議長に内定するが、第1次吉田内閣の成立直後に追放。1951年に追放解除。
河野一郎 - 朝日新聞記者を経て政治家となる。1942年の翼賛選挙では非推薦で立候補して当選している。1945年の日本自由党の結成に参加。第1次吉田内閣の成立直後に追放。1951年に追放解除。
山崎巌 - 東久邇内閣で内務大臣。治安維持法廃止を拒否したため罷免命令を受けると共に追放。1951年解除。のち自治大臣。
[経済界]
足立正 - 王子製紙社長。
石田礼助 - 三井物産代表取締役、追放解除後、日本国有鉄道総裁。
二代伊藤忠兵衛 - 伊藤忠商事並びに丸紅の基礎を築いた実業家。1947年9月に公職追放、1950年10月に追放解除。
小平浪平 - 日立製作所社長。1951年6月、追放解除。
小林一三 - 阪急電鉄創業者。第2次近衛内閣で商工大臣、幣原内閣で国務大臣。1947年に追放。1951年追放解除。のちに東宝社長。
五島慶太 - 東京急行電鉄社長。東條内閣で運輸通信大臣。1947年に追放。1951年、追放解除。
下中弥三郎 - 平凡社社長、大政翼賛会発足に協力、大日本興亜連盟役員。1951年追放解除で平凡社社長に復帰。
田中正明 - 大日本興亜同盟職員、松井石根の中国訪問時に随員。復員後は南信時事新聞編集長。1949年に追放。
堤康次郎 - 西武グループの創設者で総帥・衆議院議員。1946年に公職追放される。1951年に追放解除され、次の年の衆議院議員総選挙で衆議院議員に復帰する。後に衆議院議長。
松下幸之助 - 松下電器産業社長。1946年に公職追放、松下電器労組と連合国軍最高司令官総司令部の交渉の末、翌年の1947年に追放解除。
大河内正敏 - 貴族院議員 理化学研究所の3代目所長。1945年A級戦犯として収監。1946年- 1951年8月6日まで公職追放。
[教育界]
小野清一郎 - 東京大学法学部教授(刑法)。1946年から1951年まで追放。
紀平正美 - 学習院教授。国民精神文化研究所役員だったため公職追放され、追放解除されないまま1949年死去。
木村秀政 - 東京大学教授(航空力学)。戦時中、軍用機の開発に関わったことが問題視された。日本大学教授(後に名誉教授)。
平泉澄 - 歴史学者、東京帝国大学教授。皇国史観の権威。1948年公職追放、1952年追放解除。
松前重義 - 東海大学創設者。1946年に公職追放、1950年に追放解除。
山田孝雄 - 国語学者、神宮皇學館大學学長。公職追放は1946年、追放解除は1951年。
西谷啓治 - 哲学者・宗教哲学研究者。京都学派に属する。公職追放後、京都大学文学部名誉教授、文化功労者。
宮川米次 - 医学者、病理学者、細菌学者。愛知県豊橋市出身。医学博士。東京大学名誉教授。東京帝国大学伝染病研究所所長を務め、伝染病・感染症の拡大防止、撲滅などに寄与した。公職追放され、後解除。
板沢武雄 - 日本近世史、日蘭貿易史を専門とする歴史学者。元東京帝国大学教授、法政大学教授。1948年1月から公職追放。1952年法政大学教授となる。
杉靖三郎 - は、1928年東京帝国大学医学部卒。橋田邦彦の下で電気生理学を専攻。日本的科学に賛同し1941年国民精神文化研究所文化部主任。1947年3月 - 26年8月 公職追放。1946年 - 1951年 医学書院 編集長 1952年 - 1969年東京教育大学教授。戦後、公職追放になったが、セリエのストレス学説を紹介し、セックス評論、大衆医学知識の領域で活躍した。
西田直二郎 - 歴史学者としては「文化史学」「文化史観」の提唱で知られる。政治・思想においては保守的であり、滝川事件後の新聞部長に就任、新聞部内で高まりを見せていた自由主義擁護の風潮を押さえる側に回った。戦時中は国民精神文化研究所所員として戦意高揚に努めたが、これらの経歴が戦後の公職追放処分の理由になった。
八木秀次 - 八木・宇田アンテナの開発者。電気工学者。戦時中は内閣技術院総裁。1946年大阪帝大総長に就任するが、その直後に公職追放。追放中は日本アマチュア無線連盟会長。1951年追放解除。同年日本学士院会員になる。
[マスコミ]
加藤謙一 - 講談社「少年倶楽部」編集長。後に学童社を創立し「漫画少年」を発刊。手塚治虫らを育てた。
菊池寛 - 作家、大映社長。内閣情報部参与として文芸銃後運動を提唱。追放中の1948年に死去。
正力松太郎 - 読売新聞社長。1945年、A級戦犯容疑で逮捕。巣鴨拘置所に収容される。1947年に不起訴で釈放され、その後追放される。1951年、追放解除。
徳富蘇峰 - ジャーナリスト、思想家。1945年にA級戦犯指定を受ける(不起訴)。のちに追放を受け、1952年解除。
前田久吉 - 大阪新聞社長、及び産経新聞創刊者。「大阪」での戦意高揚のため。1946年から1950年10月まで追放。
松本重治 - 日本のジャーナリスト。財団法人「国際文化会館」(東京都港区六本木)の専務理事。理事長。アメリカ学会の会長。1947年から公職追放。
[その他]
岩本徹三 - 日本海軍の戦闘機搭乗員。『最強の零戦パイロット』と謳われた名操縦士。追放後、北海道に移住し農業を営む。1952年の追放解除後、益田大和紡績会社に転職。
円谷英二 - 映画監督・特撮監督。戦時中に軍人教育用の「教材映画」、戦意高揚目的の「戦争映画」の演出・特撮監督を務めたため、1947年に追放され、東宝を退職。1952年の追放解除により東宝に復帰。
原田大六 - 考古学者。復員後、故郷の福岡県前原町(現・糸島市)で中学校の代用教員をしていたが、中国大陸で憲兵をしていたことから追放。その後、在野の考古学者に転身。
安岡正篤 - 思想家。大東亜省顧問。1952年に追放解除。
[極端な国家主義的団体、暴力主義的団体、秘密愛国団体]
創立者、役員、理事、要職を占めた者、刊行物や機関紙誌編集者、自発的に多額の寄付をした者
●東京都:愛国勤労党 愛国社 アジア青年社 亜細亜大陸協会 大亜義盟 大亜細亜協会 大直会 大日本言論報国会 大日本護国軍 大日本一新会
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