【諸乗法数】2-1
【諸乗法数】2-1
これより「二」の部
真如二 安立 非安立
註 世親の『佛性論』巻四には「安立は阿羅漢の境地、非安立は如來の境地」との意味の言葉がある。安立は四聖諦(ししょうたい)に止まるが、非安立は佛果に至るとの義。
疏 四聖諦 略して四諦 (したい) とも。真理を4種の方面から考察したもの。釈尊が最初の説法で説いた仏教の根本教説であるといわれる。
(1) 苦諦 (くたい。この現実世界は苦であるという真理)
(2) 集諦 (じったい。苦の原因は迷妄と執着にあるという真理)
(3) 滅諦 (めつたい。迷妄を離れ,執着を断ち切ることが,悟りの境界にいたることであるという真理)
(4) 道諦 (どうたい。悟りの境界にいたる具体的な実践方法は,八正道で(はっしょうどう)あるという真理)
法心二 理法心 智法心
註 二種法身とも謂う。經典に依って諸説あるが、『華嚴經』に據れば理法身は本覺の理性に基づく法心。智法身は修行の結果得られる法身。因みにここでいう法身は佛果と見て差し支えない。
疏 仏果 修行を積んだ結果として得られる、成仏(じょうぶつ)の境(きょう)。修行といってもこうすれば必ずこうなるというものではなく、一たび修行者となったからには、生涯、起居動作すべてが修行であるとされる。意識して得られるとは限らず、無意識のうちに何かを会得していることもある。修行は一筋縄ではいかず、さまざまな試行錯誤、方法論があることから、結果として仏教にいろいろな宗派ができたともいえよう。大きく分けて密教と顕教があり、また、経文を拠り所にするものもあれば、不立文字を旨とする所もある。浄土真宗のように修行をしない所も(これは否定をしているわけではなく、阿弥陀仏にすがることを重視する他力本願の最たるものなので、自力本願である修行とは対極をなすということ)。さらに法華や修験道のように心身を過酷な状態に置く荒行を課す所もある。どれがよいかどうかなどとても判断できないが、どのようなものでも強制され、命じられて行うものではない。弟子となったからには師僧に服従するということがあるとすれば、それは軍隊であり、滅私奉公である。自分を殺してしまっては元も子もないし、これこそマインドコントロールに陥ってしまう。荒いのと厳しいのとは違う。「荒」は「すさむ」という訓があるように、荒々しすぎるとぼろぼろになる。「厳」は「おごそか」という訓があるように、厳格なのは厳しいがそれによって正しく導くという意味がある。厳しい修行があっても、荒い修行は修行とはいえないだろうし、これこそ釈尊が否定したものだろう。厳格なものは推奨しているはず。
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