佛像圖彙553
【553】多羅菩薩(たらぼさつ)
[通釈]
多羅菩薩
[解説]
観音が「自分がいくら修行しても、衆生は苦しみから逃れられない」と悲しんで流した二粒の涙から生まれた。右目の涙からは白ターラー(多羅)が、左目の涙からは緑ターラーが生まれた。彼女たちは「衆生の済度を助ける」と発願し、菩薩は悲しみを克服したという。「いくら修行を積んでも衆生を救いきれない」と嘆いたとするものもある。女性らしい像容の観音だが、あくまで男性であるとされる(弁財天や飛天のように仏教以外の由来のものには女性も)。しかし、この多羅菩薩は当初から女性として伝えられている。
この世に生まれた以上は、生老病死からは逃れることはできず、いずれも苦であり、さまざまな悩みをもたらす。これをなんとかしようとすると更にさまざまな煩悩が生じる、と説いたのが釈尊であり、現世では苦しみから逃れることはできない以上、少しでもその気持ちを軽くするよう修行し、心が何物にも動かされず、軽くなるようにする、安心(仏教では「あんじん」と読む)できるようにすることを教えとされた。今の宗派の中には現世幸福(「信ずれば現世で幸福になれる」)をうたい文句にする所があるようだが、それは釈尊の教えではない。多羅菩薩も悲しみこそ克服できたものの、衆生を救う方法を見つけたわけではない。
今、兜率天(とそつてん)という所で修行中の弥勒菩薩は、いかにすればすべての衆生を救うことができるかという究極の道を絶えず思案しているとされる。それがわかるまであと56億7千万年かかるといわれているが、それほど苦しみというのは生きとし生けるものにとって大きいものであり、「入信して会費諸経費を払い、更に布施を続ければ幸福になれる」というほど生易しいものではない。
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