佛像圖彙444

【444】葬頭河の婆(そうずがわのばば) 


[通釈] 

葬頭河の婆 

身長は十六丈、目は車輪の様である。 

三途の川にいて、名を奪衣婆(だつえば)という。男もいて懸衣翁(けんえおう)という。老婆が亡者の衣を剥げば、老翁はそれを受け取って衣領樹(えりょうじゅ)に掛ける。 


[解説] 

 葬頭河婆は、三途の川の畔にいて、亡者の善悪を試すため、衣を剥いで懸衣翁に渡す。翁は傍らの衣領樹に掛けて枝の撓り具合で善悪の程度を見極める。現在では奪衣婆のほうだけが有名となり、三途の川で衣服を剥ぎ取るといったことで恐れられているが、懸衣翁の存在も忘れてはならない。

 昔の人もよくわからない事に対しては半信半疑で、幽霊なども意外と冷めた捉え方をしていた。しかし、幼少の頃から寺子屋や檀那寺などで、あるいは父母祖父母などから地獄のことや奪衣婆の事を聞かされたから、悪いことをすると地獄でエンマさまに舌を抜かれるとか、奪衣婆に着物を剥ぎ取られるといったことは半信半疑よりもかなり強く真に受け、そのために自制心が育ったものである。昔の人のほうが責任感が強いのも、常に心の隅に「悪いことをしたら」という気持ちがあったからで、多くの人が自然と戒律を守る生き方をしていたといえよう。 

 信教の自由がカルト問題に絡めていろいろ言われているが、何も作られた教団でなければ信仰心、信心は育たないわけではないし、仏心が芽生えないわけでもない。釈尊は教団に入って悟りを開いたわけではなく、常に自問自答をし、苦しみ悩んで、その中から「諦め」というものを悟った。もちろん、釈尊のような立派な人は自身で切り拓くことができるので、我々凡人はしかるべき師や先達について基本から教わらないと、独学では限界があるし、我流では異端に走ったり全く異なった道を歩み、間違いの元となる。神仏は実在するか否かといったことを研究するのも意味はあるだろう。しかし、人には見ることができない心が確かに存在する。この心は日々揺れ動き、自分でもどうすることもできないものである。これを鎮める一助として信仰がある。自分がそれは信じるに値すると思えばそれに心を寄せることは大切。ただ、残念ながらそういう心を弄び、金品を奪い取ろうという悪鬼羅刹が宗教のフリをし、修行者、聖職者の皮をかぶっている者がいる。世の中とはそういうもので、真偽を見分けるのは難しい。人をだまし、不幸にする者は地獄に堕ちる。当人たちにはそういう自覚もないわけだが、天はお見通し。それをこそ信じて、我々は真っ当な生き方をしていきたいと改めて思う。  

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