佛像圖彙425
【425】刀八毘沙門(とうはちびしゃもん)
[通釈]
刀八毘沙門(天) 梵字はベイ
[解説]
刀八毘沙門天は、毘沙門天信仰の中から生まれた日本独自の尊。左右に刀を八振り持つ異形の毘沙門天であり、主に戦国武将による軍神としての信仰が知られている。特に上杉謙信が深く信仰した事は良く知られている。
現在、カルトと政権が深く癒着している疑惑から宗教や信仰が問題となっている。教団としての宗教はともかく、信仰が問題視されるのは、それだけ我が国は世界にも類を見ないほどの多神教であり、仏教ひとつとっても無数の宗派、単立寺院があり、さらに信仰対象となる像もこの刀八毘沙門天などのように新たなものを次々と創作してしまうため、もはやこういう像がどれほどありがたいものかがわからない状態。この尊を深く信仰、帰依する人にとっては絶対的なものでも、刀という物騒なものを多く振りかざす姿に恐れをなす人も少なくないだろう。
異端は既成のものに納得ができない、満足できない人が作り、賛同者が現われて形をなす。しかも、自分こそが正統であるとして原理主義を標榜する。経典に書かれていること一字一句はすべて正しく、文字や言葉自体が神であるとして絶対視する。経典や偶像たる神、神の言葉を告げる教祖は絶対だ、とし、それを信じるかどうかは個人の自由であり、信教の自由の理念もここにある。 しかし、絶対正しいのだから絶対に信じなければならない、他の宗教は悪であり悪魔であるとして敵視し、恐怖心を植え付け、さらに法外な金品を布施として出すことが功徳であるとし、教団に疑問を感じたり脱会しようとすると「地獄に堕ちる」「悪魔の餌食になる」などといって恐怖から身動きがとれないようにしてしまう。もはや信仰の強制どころではなく、人格の支配である。 翻って、この刀八毘沙門天。これも元々なかった尊であることからすれば異端である。釈尊に仕えたり護ったわけではないし、古代から存在した神でもない。
しかし、仏も神も決まった姿かたちはないということからすれば、特に観音さまは自在に姿を変えて衆生を救うことからすれば、毘沙門天が時にこういう姿をしても不思議ではない。おおらかに捉えればよいだろう。もし、「刀八毘沙門天こそが絶対に正しい」という教えや人が現われれば、それはカルト化の萌芽として警戒し、近寄らないことが必要だが、「こういうお姿もアリだなあ」という程度の気持ちであれば、これこそが信仰というものだと愚考する。
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