佛像圖彙418
【418】夜叉天(やしゃてん)
[通釈]
夜叉天 梵字はヤ 『婆娑論』に「須弥山(しゅみせん)の中に住んで諸天を守護する」とある。
[注]
婆娑論 書名。正式には阿毘達磨大毘婆沙論。新旧の二訳があり、旧訳は東晉の浮陀跋摩、新訳は唐の玄奘三蔵。
[解説]
夜叉には男と女があり、男はヤクシャ(Yaksa)、女はヤクシーもしくはヤクシニーと呼ばれる。財宝の神クベーラ(毘沙門天)の眷属と言われ、その性格は仏教に取り入れられてからも変わらなかったが、一方で人を食らう鬼神の性格も併せ持った。ヤクシャは鬼神である反面、人間に恩恵をもたらす存在と考えられていた。森林に棲む神霊であり、樹木に関係するため、聖樹と共に絵図化されることも多い。また水との関係もあり、「水を崇拝する(yasy-)」といわれたので、yaksya と名づけられたという語源説もある。バラモン教の精舎の前門には一対の夜叉像を置き、これを守護させていたといい、現在の金剛力士像はその名残であるともいう。(以上、Wikipediaより)
「外面似菩薩内心如夜叉」(げめんじぼさつ ないしんにょやしゃ)という慣用句でお馴染み。「似」は「如」とするものも。外見は菩薩さまのような優しい感じなのに、心は夜叉のように冷酷冷淡である人を例えたもの。人の心は外見、表情からは伺いしれないもの。しかし、内心というのはえてして瞬間的に表情や態度に出るもので、人を見る目がある人というのは、そういう僅かなものを逃さず察知する。常に疑心暗鬼というのはよくないが、完全に信じ切るというのもまた危ない。今、問題となっているカルトは、自分に対しては絶対的信仰を要求し、入信したら組織、教団以外の人のことはサタンと思えといったように疑心暗鬼でいることを命じる。完全に人格や精神を支配するので、カルトが否定されるゆえんである。人の弱さにつけ込むものに碌なものはない。
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