政談83
【荻生徂徠『政談』】83
(承前) 私の外祖父、児島助左衛門の父か祖父が二百石にて三河の知行所に居住していた。大坂の陣の御供に侍七、八人、馬二匹を引き連れたと曾祖母が語った。曾祖母は大番頭(おおばんがしら)鳥井久兵衛の娘で、久兵衛の知行所の上総の国苅屋(かりや)で生まれ、三河へ縁づき、久しく住んでいたために終生三河ことばを話していた。助左衛門は貞享(じょうきょう)の頃に罪を得ることあり、流罪に処せられ、跡目は断絶、三河の知行所も召し上げられたが、現在まで児島党が京や大坂警備のため関西へ上る時は、三河の百姓たちが岡崎までまかり出て、昔の地頭様と敬って挨拶をすることになっている。武家が知行所に住む時は、百姓たちは幼少の頃より地頭様、殿様と常に崇め奉る。その心が骨髄にまで沁み込むため、知行所はよく治まる。このような者を軍役に召し連れたなら、欠け落ちの者は言うに及ばず、いかに主人の役に立つかといった話をいろいろ聞いている。
[注解]徂徠の母の養父、小嶋正朝(まさとも。本文では「児島」)は幕臣として大番組頭(おおばんくみがしら)から船手頭(ふなてがしら。幕府の船舶の管理と海上輸送、巡視を担当。大坂の陣当時は水軍として豊臣方の海上での妨害にあたった。幕末に軍艦奉行に改められる。海軍の前身のようなもの)に出世したものの、貞享元年(1684)に長男繁之が殺人をしたため連座制により父が八丈島に流刑となった。貞享の頃は刑も連座制も厳しかった。このあと元禄の頃から次第に連座制の範囲が縮小してゆく。赤穂浪士46人が切腹となったが、それに連座して15歳以上の男子が流刑に。対象となったのは4人。これ以前だと幼児だろうと乳児だろうとことごとく連座となり、最悪の場合は処刑された。時代が進むにつれてあまりにむごいという意識が広まり、対象を狭め、処刑も本人だけにとどめるようになった。
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