政談42
【荻生徂徠『政談』】42
〇路引の事
路引(ろいん)とは、つまり旅人の道中切手のことである。戸籍によって国中の人の居場所が定まるゆえ、他所の人が紛れ入ることはかつてはなかったが、道中が盛んとなり、を往来する街道に調べる所がなければ、ひそかに遠国へ逃亡する懸念がある。昔、夏殷周三代の時代には諸侯の国ごとに関所があり、ここを越えるには繻(しゅ)というものを必要とした。日本も昔は関所が国々に置かれていた。伊勢の鈴鹿、美濃の不破、越前の愛発(あらち)の三関所をはじめ、国々に関があったゆえ、和歌に詠まれた名所にも関の名がたくさん見える。関所を通るには過所(かしょ)という切手があった。今も京に過所船(かしょぶね)があるのは、元来京と大坂は淀川を通すことで関所の往来を自由にさせた船のことを言ったもので、いつしか船の名そのものとなった。
[注解]●繻 布でできた割符。 ●過所船 過書船とも。幕府の許可のもとに京伏見と大坂天満橋間の淀川を往来した船。一般には三十石船として知られる。
続いては戸籍に付随した手形についてです。
戸籍によってすべての人の存在を明らかにするとともに勝手な移動をさせないようにする。しかし、旅そのものを禁止するわけにはゆかず、とはいえ、旅を認めると必ずそれに紛れて悪意をもって移動する者が出る。そこで、地形上、移動には必ずその地を通らなければならない所に関所を設け、旅行許可証たる道中手形を所持する者だけ通過させるようにすべきで、これは中国の三代の頃からの良い制度であり、日本も各地に道路が作られるようになった頃から関所も設けた。いま一度、この制度、仕組みを整備することを説いています。
もう気が付かれたことと思いますが、徂徠の考えは、どんな制度も時間が経てばかならず弛緩し、実状にそぐわなくなる、だからその制度が作られた当時に戻すことが必要という立場です。徂徠は儒者だけに中国古代(儒家の経書の時代)の制度を基本としていますが、将軍吉宗をはじめ、多くの為政者や学者たちは乱れた世を直すには神君家康公の時代に戻すことが必要と考えた。時代は常に前進し、進歩させなければならないのに、いつの間には歯車が狂い、いろんな手を打つものの全然よくならない。小手先の対処療法ではどうにもならないという時、一度すべてを巻き戻そうという思考。三代や家康が絶対的に正しいというわけでないことぐらい徂徠たちも重々承知している。このまま突き進んでも駄目だとわかった時は、少し引き下がって進路を変えることが為政者には必要ということです。為政者にしろ官僚にしろ、面子のこだわりや既得権益死守のために一度決めた方向に何が何でも突き進み、批判されても聞かず、いろんな理屈をつけたり御用学者・評論家らに正当化させますが、そういう態度では先がありません。
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