佛像圖彙254
【254】高野大明神(こうやだいみょうじん)
[通釈]
高野大明神
丹生権現の第一御子である。 本地は金剛界の摩訶毘盧遮那(まかびるしゃな)である。 摩尼殿にて常恒説法の教主である。
[解説]
高野大明神は高野山の地主神。狩場明神ともいわれる。
[雑記]
今回もあるお坊さんのtweetから。浄土真宗の方とのことです。
死は一瞬とはいえ、どんな死に方でも恐ろしい。痛い、苦しい、どんな死に方をするにしても、楽な死に方はありません。寝ている間に、自分自身で全く知らない間に息を引き取るというものもありますが、そういうのは少ない。そのため、死を恐れる。
更に、死後の世界という未知のものへの不安もあります。仏教では浄土という存在を説いており、成仏すれば極楽往生できるという希望と安心を与えてくれています。
しかし、生前の行い(業(ごう))により往生はできない、地獄に堕ちるとか、永遠に生まれ変わり死に変わりの輪廻を続けるといったことも説いているため、さらに不安や疑問を持つ人も。常に迷い惑うのが凡夫であり、仏心さえ起こせば仏さまは平等である。「平等」を寺号につけているお寺が多いのもその教えによるもので、有名なのが宇治の平等院てすね。
浄土真宗は死後(来世)での幸福を目指す宗派で、ひたすら念仏を説くように教えているようです。そのため、現世利益(病気平癒ほか)を願う人には物足りなさを感じてしまい、さらに「無条件では往生させられない」といわれてしまうと、救済されないのかとさえ思ってしまう。
私は、仏も神も、さらには浄土も地獄も我が心にあり、死後はそういうのもすべて消滅する、と思っています。唯我独尊の意味はこういうことではないかとさえ思っていますが、もし、浄土というものが本当にあるならば、なおさらわが心の中にあるものを大切にし、磨いてお迎えが来るのを待つのがよいのではないか、そのためにもさまざまな戒めを守り、悪人とならぬことをひたすら心がける、これしかないように感じます。阿弥陀さまの願いは何々ではあるまい、などと大それたことはとても言えません。
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