佛像圖彙246
【246】愛宕権現(あたごごんげん)
[通釈]
愛宕権現 梵字はユク
軻遇突智神(かぐつちのかみ)を祭る。この神、火に灼(や)かれて薨じた。そのため火の禍いを救う事を誓う。 奥の院の太郎坊は後、将軍地蔵の本宮となる。
[注]
軻遇突智神 伊奘諾尊(いざなぎのみこと)と伊奘冉尊(いざなみのみこと)の子。 生まれたときに母神の陰所をやいたため,母神は死ぬ。 おこった父神に斬り殺され、その血から岩石神、雷神らが、死体からは8種の山津見神(やまつみのかみ)が生まれたという。
将軍地蔵 甲冑を帯し騎馬した姿で表される。地蔵信仰が武神として人々に受容された物。成立等に付いては不明な点が多い。
太郎坊 愛宕に棲むという天狗の棟梁。
[解説]
愛宕権現は、山城と丹波の国境(くにざかい)の山。比叡山と共に古代から信仰を集めた。神仏習合時代には将軍地蔵信仰の拠点となった。秋葉と並んで火伏の神として信仰を集める。
[雑記] Twitterで流れてきたtweetより(アカウント名などは省きました)。
門外漢といわれているこの方、他の宗派の在家の方のようです。完全に門外漢の私が云々する資格はありませんが、先日取り上げた「うちでは般若心経を唱えてはいけない」というのと同根ではないでしょうか。
どんな人でも、どんな状況でもお念仏を唱えることは仏心に叶うのだから、砕けた(と思える)言葉のあとにお念仏で締めくくるのは、「以上、まだまだ至らぬ私ですが、阿弥陀さまにひたすら帰依いたします」という誓いを改めてするというように感じるのですが。
浄土と法華に対しては、他の宗派の僧侶の中に厳しいことを述べているのを時々見ます。浄土系に対しては「修行をしない、お経も否定して他力本願のみ」という批判を見掛けたので、本当にそうなのかと調べたら、確かに過酷な行(ぎょう)については、特に真宗ではしないし、般若心経や観音経(観世音菩薩普門品第二十五)など、基本的なお経も真宗では唱えることはないようですが、個々の僧侶レベルでは唱える人もおり、絶対こうだという決まりはないようです。
「不敬」というと、何か天皇に対する態度を想起して嫌な感じがします。仏神さまに対して不敬というのは何を以てそういうのかもよくわかりません。信仰するかしないか、その態度が全てであり、砕けた言葉でも最後に帰依を表明するお念仏を唱えている以上、不敬とはいえないように思うし、そもそも心の中は阿弥陀さまがお見通しなのだから、他の宗派の人があれこれ言う必要もないのでは。
信仰は心が大切。さりながら、礼拝にも形があり、形も大事というのも分かります。しかし、お念仏は「これこれこういう時にのみお唱えするものである」などという厳格なしきたりはないはずだし、仏教はすべて仏、つまり仏陀の教えに帰結し、出発点であり、仏陀が「砕けた言葉のあとにお唱えをしてはならぬ」という教えは示していない以上、現代人同士で「これはいかん」「それは不敬だ」などと決めつけたりいがみあうのは、結局は「釈迦の恥」になるのではないでしょうか。
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