佛像圖彙175

【175】諏訪大明神(すわだいみょうじん)


[通釈]

諏訪大明神 梵字はウーン 二日

信濃国諏訪郡に鎮座。本地は普賢菩薩。


[解説]

 諏訪の神は日本でも有数の古さを誇る神。この図は上社の男神。下社は女神で、古より「諏訪南方上下大明神」と呼び習わしている。男女神一対で描くべきで惜しいことである。

 諏訪は活神である「大祝(おおほうり。金刺氏)・諏訪氏」と、それを祀る「神長官・守屋氏」の二氏で構成される。故藤森栄一氏の言によれば諏訪氏は侵入してきた弥生系。守屋氏は征服された縄文系と。守屋氏は「鹿食免(かじきめん)」と称する符と箸を授与していた。これがあれば獣肉を食しても穢れぬという意味。

 総本社である諏訪大社は、奈良県の大神(おおみわ)神社と同様に本殿がない。三輪信仰を吸収した近江国の山伏が広めた甲賀三郎伝説の影響で諏訪信仰そのものも三輪信仰の影響を受けた結果、御射山の神を三輪山の神と同体とする思想が生まれたからとも、諏訪氏(神氏)を大神氏の同族集団であるためであるとも言われている。ご神体が山(神体山)であり、山を拝することからことさら本殿は必要がないといったことか。


[雑記]

 月こそ違え、21日は弘法大師の命日(縁日)。そこで、お大師さまがご入定(にゅうじょう。亡くなること)される様子を「弘法大師行状記」(土佐光信:画)で紹介します。厳密にこの通りであったかどうか、伝承に基づいて想像して描かれたのでこの通りだったと思うのは早計ですが、このような雰囲気であっただろうということでご理解ください。

〔1〕御入定


〔2〕御弟子たちの担ぐ御輿で高野山奥の院へ


〔3〕真如親王が大師の御影を制作


 真言宗では、弘法大師は奥の院で今も修行(瞑想)を続けておられるということになっています。

 真如親王(高岳親王)は波乱に満ちた人で、略歴は以下の通り。

 高岳親王(たかおかしんのう):

 [生]延暦18 (799).京都

 [没]貞観7 (865)?

 平城天皇の第3皇子。高丘とも書く。出家して真如と号した。大同5(810)年平城上皇が復位をはかろうとして挙兵(→薬子の変),失敗して剃髪のとき,太子を廃された。のち仏門に入り,東寺に住し阿闍梨(あじゃり)となり,弘法大師(空海)の弟子となった。大師入滅ののち入唐求法を志し,貞観3(861)年唐に渡り,さらに同 7年インドに向かったが消息不明となった。元慶5(881)年在唐留学僧から,親王が西域に赴き羅越国で死去した旨報告があった。羅越国は今日のシンガポールにあたると推定されている。(ブリタニカ国際大百科事典より)

過去の出来事

過去の本日の朝廷や江戸幕府の人事一覧、その他の出来事を紹介します。ほかに昔に関する雑記など。