『東隅随筆』第654号巻頭文より

『東隅随筆』第654号巻頭文より

※すべて同感であり、著者の許可を得て紹介します。改行はこちらでさせて頂きました。


シバンムシの発出があったが、六月十一日には梅雨入り、湿気った生活が始まる。

十七日は義父の命日で、十四日に法事を執り行う。七月十七日に服喪の期間が明けて、夏は一旦新型コロナも落ち着きを見せる様子だが、無くなった訳ではない。毎年インフルエンザが流行るようにコロナも流行るに違いない。

安倍のマスク以来、布製マスクが普及しているが、ガーゼも布もいくらでもウィルスは透過するので、予防にはならない。クシャミが出る時、唾液などの飛沫を防ぐ程度であって、ウィルス感染予防には何程の抵抗も無い隙間だらけの繊維である。これを商機と見て、さまざまなメーカーが予防効果の無いマスクを売り始める。ウィルスには何の抵抗も出来ない商品であることを明言すべきである。よほど呼吸に困難を与え、熱中症を助長することになるのではなかろうか。

世界は人種差別解消を願うデモが頻発している。正義のデモということで、デモ参加者は安心して正義の側に立てる。差別が悪で平等が善という単純構造に作られているので、参加者側は安心だ。これが略奪行為に及べば話は変わる。デモが道を塞ぐことによって大きな損失が発生するとこれも問題である。正義の行使のための犠牲では済ませられないはずだ。

人種差別は根強い。反日民族主義もある。自己肯定のために何かの違いによって他者を差別し攻撃する、正義のために反正義を攻撃する、理由を作り、主義を主張し、他者を責めれば、そこに対立が生まれる。反対の意見が出されても両立する健全な社会は少ないのだろう。

その背景には不変の正義の存在への憧憬が考えられる。他者を殺す、他者から奪う、人種差別といった不変の悪があると認定するからだろう。現象としては悪だが、自己の命の防衛のための他者の殺害は正当防衛とされたり、契約違反のために強制的に回収したことを奪ったとされたり、人種間の差別も相互で起こり得るし、部族対立、宗教対立など争いの原因は絶えない。そして絶対的正義など実は価値観が変われば違った解釈になりかねない。今日、一方的な理解によって行われているかもしれないのだ。

人類の所持する様々な価値観の歴史的探究の必要は、根源的価値観の探求であると言いえよう。数値化しがたい人の心が作り出したさまざまな考え方、その蓄積の歴史からよりよい人々の共生する世界の在り方を創造するには想像力と閃きと歴史の探索から新たに発見される価値観を作る事になろう。だが、間違えれば人類滅亡にもなりかねない。常に滅びの危機と隣り合わせになってしまった小さな地球をどうしたら守り子孫に伝えていくことができるのだろうか。

功利的経済優先と技術革新が人の生活を脅かす一方で様々な便利も与えている。だがその副産物によって生命が侵される場合も無しとはしない。それを防ぐ社会の制度や規則を作るが、そこに抜け道を作るのも解釈の違いで悪用するのもまた人なのである。それも様々な人々の持つ多様な価値観に拠る行為である。多様性は必ずしも否定されない。選択肢は多い方が良いとは経験的に人類は知っている。この多様性の範囲もまた人が定める。その壁を破って外側へ多様性を求めるのも人類の欲求である。

狭い地球の極東で、東アジアの毛筆文化の価値観の変遷を見ながら、多様な筆蹟の中に日本列島ではぐくまれた文字の文化を考える時に、人文学の知の道程を思いつつ、これからの価値観を考える作業に歴史事実の大切さを無視することは出来ない。

現代の社会の礎を近代化に求めるのであれば、前近代までの差異を明確にして、前近代の意識と近代の意識差を読み取る必要がある。近代文学にその指標を見て、国語の教育の中で国民全員への識字教育に始まり、心の感性の涵養も含め、最低限必要と考えられる教育課程を義務教育として施した日本人社会の成果は現代社会そのものなのだろうと察する。

しかし、一方で近世やそれ以前の文献を読みこなす知識は失われ、それにかわる方策として近世以前の文献が、近代教育の中で読めるように活字翻刻して読ませるという、原典の側を活字に変質させてしまう処理が施され、平安文学も中世文学も何もかも、活字翻刻化の変換によって体験する教育現場が出来上がったのである。効果は絶大だ。だれもが源氏物語を読めるようになり、徒然草を知り、平家物語を知り、西鶴も馬琴も読めるのである。歴史書ならば古事記も日本書紀も古典全集を図書館に借りに行けば、誰でも読めるようになった。それを読めば読んだことになった。

だがその原典はそもそも別な文字によって作られていた。おそらく毛筆で書かれていただろうそれらの書物の書き手は、活字という現代人が読む文字の世界を知らない。現代人側が活字に置き換えてそれを等価値であると決めたのである。

教育によって等価値という価値観は肯定され、世の中はそれに従っている。しかしそれは一方の正義ではあるが、普遍な価値観とは言い難い。何しろそれらは活字で作られたものでは無いということを一方で知っているからである。読まれる文字の姿が違えば、そこに違う価値観背景があったと考えられるからだが、大概はここを無視して教育は行われている。

人文学がどこへ行こうとするのか、世情は厳しい。しかし人文科学の価値を分からず、ある価値観のみで評価し貶めている向きもある。社会の様々な事柄が不寛容を基準に進んでいる。厳然とした対応を必要とする部分ももちろんある。だがグレーのままでもよさそうな許容の中の案件もあり、すぐに白黒つけたがる昨今は、何かその場の一時の価値観に左右されすぎてはいないか、顧みて考え、さらに考え、もう一度考えても良い気もする。その間に黒いものが白に、白が黒になりかねない目まぐるしい変化があるので、どうかなと思ったり。それでも『東隅随筆』は毛筆時代の資料の提供を継続をする。(東隅書生)

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