1947年5月10日

1947年5月10日 昭和22年

【内 閣】

第1次吉田茂内閣

総理 吉田茂/外務 吉田茂(兼)/内務 大村清一/大蔵 石橋湛山/司法 木村篤太郎/文部 田中耕太郎/厚生 河合良成/農林 和田博雄/商工 星島二郎/運輸 平塚常次郎/無任所 植原悦二郎、一松定吉/内閣書記官長 林譲治/内閣副書記官長 周東英雄/法制局長官 入江俊郎/復員庁総裁 幣原喜重郎

【植民地高官】

樺太庁長官 大津敏男

【東京都長官】

西尾壽造

【首 長】

大阪府知事 赤間文三/大阪市長 近藤博夫/京都府知事 木村惇/京都市長 神戸正雄/北海道庁長官 田中敏文/青森県知事 津島文治/岩手県知事 国分謙吉/秋田県知事 蓮池公咲/宮城県知事 千葉三郎/山形県知事 村山道雄/福島県知事 村山道雄/茨城県知事 友末洋治/栃木県知事 小平重吉/群馬県知事 北野重雄/千葉県知事 川口為之助/埼玉県知事 西村實造/神奈川県知事 内山岩太郎/山梨県知事 吉江勝保/新潟県知事 岡田正平/富山県知事 館哲二/石川県知事 郡祐一/福井県知事 小幡治和/長野県知事 林虎雄/静岡県知事 小林武治/愛知県知事 青柳秀夫/岐阜県知事 武藤嘉門/滋賀県知事 服部岩吉/奈良県知事 野村万作/三重県知事 青木理/和歌山県知事 小野真次/兵庫県知事 岸田幸雄/岡山県知事 西岡広吉/広島県知事 楠瀬常猪/山口県知事 田中龍夫/鳥取県知事 西尾愛治/島根県知事 原夫次郎/香川県知事 増原恵吉/徳島県知事 阿部五郎/愛媛県知事 青木重臣/高知県知事 川村和嘉治/福岡県知事 杉本勝次/佐賀県知事 沖森源一/長崎県知事 杉山宗次郎/大分県知事 細田徳寿/宮崎県知事 安中忠雄/熊本県知事 桜井三郎/鹿児島県知事 重成格/沖縄県知事 志喜屋孝信

【国際連合】

事務総長 トリグブ・リー(初代)

ソ連、朝鮮米ソ共同委員会の再開受諾。

総理庁に特別調達庁設置。

参議院緑風会結成。

1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員選挙で第一党は日本社会党の47議席。 以下、日本自由党39、民主党29、国民協同党10、日本共産党4議席をそれぞれ占めたが、無所属議員が108人の当選を見て、最大勢力となった。同年4月20日、無所属で当選した一人で、貴族院議員からのスライド組でもある山本勇造(有三)の当選祝賀会で、後藤隆之助は「既成政党にあきたらぬ清新な人たちばかりを集め、無所属クラブを作ってはどうか」と山本に意見し、山本も乗り気になった。一方、5月1日、やはり貴族院からの転身組であった河井彌八は、古島一雄、赤木正雄らと相談した結果、保守系議員の有志を糾合しようということになった。同じく貴族院出身である慶松勝左衛門もまた、同様の構想を持ち、河井らと合同した。慶松は日本自由党公認で当選したが、政党の枠を超えた会派を作ろうとしていた。こうした動きが相次いだのは、一つには貴族院転身組や当時の官僚は自負心が強く、既成の政党を低く見ていたからである。また、衆議院と一線を画した、不偏不党の統一会派を作ろうとする機運もあった。これについても、政党色を嫌った貴族院の影響があったといえる。しかし、慶松らの計画に参加していた橋本萬右衛門(民主党)が、民主党系の会派が発足したことを打ち明けると、自由党も自前の会派を発足させ、大同団結構想は挫折した。その間も山本らは無所属議員の団体結成を進めた。5月10日、第一回結成準備会を開き、山本ら41名が発起人となった(出席者20名、賛同者21名)。団体名は仮に無所属クラブとし、正式名称は追って決めることにした。5月17日、無所属の参議院議員のうち保守系を中心とした72人が集まり、院内会派「緑風会」を結成した。会派名は、いったん「中正会」に決まったが、山本は貴族院に存在した公正会に似た名称であること、各人の自由意志を尊重するためには、政治的イデオロギーのある名称は好ましくないなどの理由を挙げ、「緑風会」の名称を提案。山本の提案が承認された。また、規約もこの時制定された。山本によれば、「緑風会」の名の由来は、第一に緑風会が発足したのは暦の上では初夏であり、また日本国憲法公布後の初の国会(第1回参議院本会議)が召集されたのは5月20日である。緑風の名は夏風にふさわしく、新しい国会発足を象徴するにもふさわしいこと。第二に、緑は七色の虹の中央に位置することから、右にも左にも傾いていない。さらに、清新・静寂・平安・沈思を連想させる色であり、第二院である参議院の性格に通じるばかりでなく、会の精神を暗示していること。第三に、国会に新鮮な風を送り込みたいという希望を持ったことを理由にしている。5月20日に第1回参議院本会議が召集されると、緑風会は92人に増大し最大勢力となった。主な内訳は、旧華族を中心とした貴族院議員からのスライド組、官僚出身者、文化人などである。初代参議院議長は、緑風会から松平恒雄が選出された。10月20日には、田中耕太郎の草案を元に、綱領を制定した。新憲法の精神を打ち出しつつ、左右の両極を排し、中道主義への立脚を目指す内容であった。もっとも、田中は戦後になって自由を強調するあまり、自由を乱用していると考えた。また国家や民族について考えることが、極端な保守反動と罪悪視されていると認識していた。そのため、「公共の福祉」よりも高次元の「共同の福祉」を提唱したり、家族や伝統の価値を強調し、労使協調を明記しようとした。最終的に、田中の草案から政治色を薄める修正を行い綱領が成立した。一方、国民協同党は参議院で10議席に留まったため、緑風会との統一会派を望んだ。緑風会側は、会員の自由意志を尊重する建前がある以上、国協党に振り回されては困るから離党してから来てくれと要求した。結局、国協党籍は残したまま、緑風会では国協党員としての活動はしないという条件で、緑風会会派入りした(ただし会派名は単に「緑風会」)。しかし、国協党員側は会内に独自のクラブを作っただけでなく、絶えず党と連絡を取り続けた。その結果、緑風会は規約に他の政党・政治団体との二重党籍を禁止する条項を追加し、国協党員に国協党離党か緑風会退会かの二者択一を迫った。結局、2名が緑風会を、残りの8名は国協党を選び、統一会派を解消した。

過去の出来事

過去の本日の朝廷や江戸幕府の人事一覧、その他の出来事を紹介します。ほかに昔に関する雑記など。