1946年8月21日
1946年8月21日 昭和21年
【内 閣】
第1次吉田茂内閣
総理 吉田茂/外務 吉田茂(兼)/内務 大村清一/大蔵 石橋湛山/司法 木村篤太郎/文部 田中耕太郎/厚生 河合良成/農林 和田博雄/商工 星島二郎/運輸 平塚常次郎/無任所 植原悦二郎、一松定吉/内閣書記官長 林譲治/内閣副書記官長 周東英雄/法制局長官 入江俊郎/復員庁総裁 幣原喜重郎
【宮中主要官】
宮内大臣 松平慶民/枢密院議長 清水澄/枢密院副議長 潮恵之輔
【植民地高官】
樺太庁長官 大津敏男
【東京都長官】
西尾壽造
【首 長】
大阪府知事 田中廣太郎/大阪市長 中井光次/京都府知事 木村惇/京都市長 和辻春樹/北海道庁長官 増田甲子七/青森県知事 大野連治/岩手県知事 春彦一/秋田県知事 磯部巌/宮城県知事 千葉三郎/山形県知事 村山道雄/福島県知事 石原幹市郎/茨城県知事 友末洋治/栃木県知事 小川喜一/群馬県知事 北野重雄/千葉県知事 小野哲/埼玉県知事 関外余男/神奈川県知事 内山岩太郎/山梨県知事 齋藤昇/新潟県知事 佐藤基/富山県知事 田中啓一/石川県知事 広岡謙二/福井県知事 斎藤武雄/長野県知事 物部薫郎/静岡県知事 小林武治/愛知県知事 早川三郎/岐阜県知事 桃井直美/滋賀県知事 柴野和喜夫/奈良県知事 野村万作/三重県知事 佐伯敏男/和歌山県知事 川上和吉/兵庫県知事 岸田幸雄/岡山県知事 西岡広吉/広島県知事 楠瀬常猪/山口県知事 青柳一郎/鳥取県知事 林敬三/島根県知事 鈴木幹雄/香川県知事 増原恵吉/徳島県知事 岡田包義/愛媛県知事 豊島章太郎/高知県知事 吉富滋/福岡県知事 野田俊作/佐賀県知事 沖森源一/長崎県知事 杉山宗次郎/大分県知事 細田徳寿/宮崎県知事 安中忠雄/熊本県知事 永井浩/鹿児島県知事 重成格/沖縄県知事 志喜屋孝信
【国際連合】
事務総長 トリグブ・リー(初代)
アチソン米議長、第12回対日理事会で極東委員7ヵ国の招請を提案するが、英ソの反対により不採用。
衆議院帝国憲法改正案委員会、小委員会の共同修正案を付帯決議を付して可決。衆議院本会議、樋貝議長不信任案上程(社・協民・新政・無ク共同提案)。
中国共産党、長春に東北臨時最高行政委員会樹立。
全日本産業別労働組合会議(産別会議)結成
解散1958年2月15日/後継組織 産別会議記念会・平和と労働会館/組織形態 ナショナルセンター
加盟団体数
21団体・準備会(1946年結成時)
7団体(1950年12月末)
2団体(1955年6月末)
2団体(1958年解散時)
組合員数
約160万人(1946年結成時)
111,500人(1950年12月)
11,540人(1955年6月末)
6,106人(1958年解散時)
本部所在地 東京都港区芝新橋7丁目12番地 産別会館
加盟組織 世界労働組合連盟(世界労連)
支持政党 なし
第二次世界大戦の敗戦後、日本の労働運動は急速な盛り上がりを見せた。産別会議は、その際に日本共産党の影響力の強い左派の労働組合を集めて結成されたナショナルセンターである。結成したのは1946年8月21日で、電気・国鉄・鉄鋼業・機器製造業・石炭鉱業など21単産、当時の組織労働者の40%以上に当たる163万人の組合員をもって結成された。政治的には右派の日本労働組合総同盟(総同盟、組合員数85万人)と競合し、二・一ゼネスト、労働立法の制定、産業復興、最低賃金制の確立、労働協約の締結など、戦後初期の日本の労働運動において重要な役割を果たした。また、国際的には世界労働組合連盟(世界労連)とも友好関係にあった。1947年には、総同盟やその他の労働組合とともに、労働戦線統一の第一歩として全国労働組合連絡協議会(全労連、組合員数450万人)を立ち上げた。しかし、1948年頃から産別会議を批判する勢力が強まり、産別民主化同盟(産別民同、民同)が結成される。民同派は2年足らずのうちに官民を問わず労働運動全体に波及して、運動の主導権を握った。ただし、民同派は反共主義が先行して、労働運動の民主化という本来の目的からそれた部分も否定できず、左右対立と組織分裂はその後の労働運動にも大きな課題を残すこととなった。産別会議は、民同派が相次いで脱退・離脱したことにより、組織は弱体化。さらに1949年以降、レッドパージによる弾圧で打撃を受けた。1950年に日本労働組合総評議会(総評)が結成された時点で少数派に転落し、共産党の混乱が続くなかでその後も勢力を回復することはできず(1950年代半ばで組合員数1万数千人)、1958年2月15日に解散した。
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