虫 損

虫 損(ちゅうそん=虫食い)

東隅書生  

書体選択について殊更言及してそれを厳しく守るように指導する書物があることを管見なために知らない。しかし前例や古の事例に倣って今にそれを処理する習慣は、古典を引用し典故に拠って判断するように、書体の選択もまた碑文であれば中国の事例に倣い、書物については唐本に見られるように作ろうとしていた日本の事情がある。そこで用いられる文字も形式も唐本や唐碑の制作習慣に習った実情が反映したものと考えられる。前例がある事を典故として正統を主張する。そんな習慣の中で行われていた書体の選択利用の意図が反映した結果とは見られないだろうか。手本とすべき中国からの文化輸入があって、その受容のなかから、模倣の次に発明が起こり日本人好みの嗜好が反映していくのではなかろうか。中国人の書物の表紙は薄い紙をつけられている。和刻本は概して厚紙表紙である。唐本めかして薄茶色の表紙をつけた荻生徂徠系の嵩山房の書物も出版されたものを見てみれば、日本人嗜好の中で唐本ほどには表紙を薄くはできなかった。和紙と竹紙の差もある。糸で綴じられる点では共通でも四針眼の中央二つの穴の位置は、唐本は中央に寄るが和刻本は概して均等にあけられる。厚紙表紙は分冊して量を増やすための選択の故もあったろうが、楮紙で漉かれた用紙に中国の薄い表紙では耐えられない実情も影響していたと考えられる。楮紙に慣れると竹紙の脆い点では唐本に頼りなさを感じてしまうのは日本人の性であろうか。唐本めかす商品価値を認めていたので和唐紙の開発なども行われていたようだが、それは舶来めかす意味があり、機能の追及結果とは言い難い。薄い紙なら日本原産の雁皮紙が優れているだろう。

和唐紙に作られた和刻本の用紙は時間経過の中で脆くなる一方で、楮紙や雁皮紙は劣化が少ない。唐本でも表紙が崩れて本文のみになってしまうものもあるが、江戸期の和本は頑丈である。和紙は中性紙であり、戦中戦後の洋紙(酸性紙)は既に崩れ始めている。千年以上昔の書の書かれた断片である古筆切は健在である。紙も原料、混合物の品質でその場は良くても後世に伝えられないものもある。表具の糊にも深刻なものがあり、経年劣化の酷いものは本紙を変色させ、酸化して崩してしまうものもある。和刻本に新聞紙など挟んであって茶色に変色した和紙を目撃する場合もある。保存についての知識普及も必要なことであろう。また、新しいモノについては経年劣化を経験していないため千年後にどうなるのか、検証結果が無いものも少なからずあり、古い時代の技法であっても千年保たれる検証がある技法は無闇に便利を優先して排除してはならないだろう。合成何何の危険は、千年後にくるかもしれないのだ。たとえその時に自身はいなくても、資料となる和本は和紙で作られていれば、災害などに巻き込まれていなければ本来健在であるはず、所有物であるにしろそれは本来伝わるべき人間寿命よりはるかに永い期間のある一部の時間で所有しているにすぎないものであり、一個人が自身とともに存在する訳ではないということを知れば、これまで伝存して手元に存在するように後世に伝わるよう注意深く存在を伝えるのは所有者の義務であるとも言えるだろう。そのように扱われてきた資料とそうではなかったものについては、状態の良し悪しが状況を伝える。勿論読み込まれ、使われて疲れた書物の姿はその役目を果たし得たのだ。

書物の敵は自然災害や戦争災害も大きいが、虫の損害は厳しいものが有る。書物を舐め、喰い散らかす虫がいるのだ。


虫の被害は深刻だ。ページが貼りつく、文字が欠ける。もはやまったく書物の姿を失うまでに喰い散らかすのだ。右はまだ書物の体裁を保っているが、この有様に出会うと暗い気持ちになる。ザラっとした粉が落ちてくる。ニョロっとした蛆のような白い虫の幼虫がこぼれ落ちてくる。銀に光る紙魚が走る(こいつは舐める虫だ)。さらにゴキブリが噛み付き、ナメクジが這うとその跡の痛みは深刻なものだ。かつ鼠は齧る。

虫の穴だらけ。和紙でなくても突き抜ける虫喰いの痕跡。悲劇的書物の有様となるのだった。おかげで安価に買えたが。(『東隅随筆』596号より著者の了解を得て転載)

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