伝・大窪詩仏幅

伝・大窪詩仏幅

東隅随書生  

大窪詩仏の幅との伝で獲得。七絶幅であろう。こんな幅があったという話に過ぎない。大窪詩仏程であれば揮毫を求められることも多かったであろうし、さらっと書く実力もある。

この画幅もまた大窪詩仏とのことで得たもの。為書になっている。柴大夫が何者かは調べていない。頼まれて筆をとったものであることは落款に嘱とあることによって知れる。「詩仏老人大窪行写併題」とある。自ら画を描いて、七絶の題詩を付記したのである。号と姓名を書いているので丁寧な事。

印影は未見に属する小さなものを捺している。参考までに

印影部分は少し大きめに抽出して掲載しておくことにする。

江戸期の画や書が比較的安価に(善補楽工房が得られる程度に)流通している。少し注意深く探せば江戸期の肉筆であれば入手は容易なものと思われる。却って近現代人が高額だ。

もはや子孫とはいえ江戸時代人の生存を目撃している人は居るまい。現に江戸時代生まれの日本人はいないのである。その時間経過が親密度を薄くして、懐かしさを減少させる。

子孫が子孫と思わず、先祖を忘れると家伝来の資料を手放したり、捨てたりして手元からは無くなってしまう。それが市場に出ると容易に商品として成り立つ昨今のオークションではそれら手放された品々が流動する。家の拘束が薄まって人生が自由度を増したが、祖先の残したものの評価を伝えないために時間経過の中で失われていってしまう。他所に価値基準をもとめても家の価値は検証できない。極めて個人的家のモノとしての価値はその家の人間しか正しく評価できないが、現実はその家の人間が捨てることによって先祖代々を失うのである。そのおかげで流通した品物を安価に獲得するマニアも一方で存在するのだが、それを手にしたときに、家の資料であるはずのものが何故ここにあるのか家の悲劇を感じることも多々あるのだ。蔵書は一代とよく言われる。集書の目的は持ち主一人の目的のために行われており、同じ人格でない人物がたとえ家族でも引き継ぐことは困難である。まして昨今の家屋土地の高騰の中、書物を積むスペース確保は困難だ。使わぬ書物を所有する余裕は残された家族には無いというのが一般的。そのおかげで古書市場に循環するように蔵書は売り出され、散逸していく。しかし、中には持ち主の家に置くべき書物も見かけるのである。それすら区別できずまとめて売られてしまったのであろう。その家に調査にいっても何も残されていないガッカリ感もそんな事情によるのだろう。これが代々続くそれなりの家でも散逸する昨今。

過去の出来事

過去の本日の朝廷や江戸幕府の人事一覧、その他の出来事を紹介します。ほかに昔に関する雑記など。