両面を刻した江戸期の刻印のことなど
両面を刻した江戸期の刻印のことなど
東隅書生
近代の「掃苔家」たちの成果は碑文の紹介として活字に組まれて出版された。その一方で墓碑文を拓本に採ることもした。活字で碑文を読み、拓本で碑文を書として見る。碑文は活字に組んで出版されれば多くの読者と碑文を共有化することが出来たのだが、拓本の出版には困難があった。活字の間に図版として拓本を差し込むには、拓本を製版にまわして凸版を作って活字とともに組む必要があったが、組版を作る上では手間も経費もかかる。さらに用紙を高級なものにしなくては図版が鮮明に印刷できない技術上の問題もあった。図版は別に製版して高級紙に刷り、活字部分と製本時に合わせる手もあるが、図版部分に経費のかかることには変わらない。現代では、文字も画像もデータ化されて同じ用紙にプリントするのも容易である。さらに紙に文字なり画像を定着させて書物出版という伝統的手法で世の中に出すことが成果の報告であったが、昨今はweb上に公開し、紙を仲介させない共有化が世界規模で可能になってきている。紙への拘りが無くなり、森林資源を保護しつつ、成果は如何様にも拡大拡散可能になったということなのだろう。それでも紙に拘る『東隅随筆』の立ち位置が危うい。「随筆身長」など無意味な目標だ(笑)。という自覚はある。おそらく遠からず紙の『東隅随筆』は無くなるのではなかろうか。却って、これまで紙を縁に配本してきた『東隅随筆』をどのようにwebに置き換えるかの作業を考える必要があるかもしれない。図書館に『東隅随筆』を探しに行く手間はどう考えても無駄だろう。さらに図書館に無くて成果無しで帰宅する悲しさは大きい。その時間と交通費の無駄は不要な事柄である。つまりは『東隅随筆』もwebに置くべきと考える。しかし、その作業時間がとれない。経費も無い。善補楽工房は慢性的なビンボー工房であることに今も変わりは無いのであった。嗚呼残念。
両面を刻した印をひとつ得た。江戸期の刻印と思われること、石の産地、石の呼称が紙で作られたケースに墨書されていたことが獲得の動機となった。朱文は「宋相氏」と読める。木偏が目を囲むようにしてデザインされている。ちと面白い。
こちらは白文で刻まれている。これは「赤希范印」とのこと。
印材の産地と呼称
刻年墨書
天保三年九月二十五日の刻印。刻者は亀田荘六と伝える。
刻者名墨書
姓名印はその人物以外は使いようも無いと思われるが、昨今ではオークションなどで流通している。よほどの著名人なら、その人の使用した印という価値があろう。そうでない場合も印材という価値がある。新しい印材の質の悪化は深刻で、古いものは石質も良いようである。最近は中国に産地を限らず、似た石であれば印材として販売されているようだ。神保町を歩いていると店先に中古印材を投売りしているところもあるようだが、古い良質なものであればお買い得。極めて最近のものでは却って割高ということも起こりかねないので、手にとって見るしかない。(以上、『東隅随筆』577号より許可を得て転載)
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