資料の保存と使用の問題 2

資料の保存と使用の問題 2

東隅書生  

(承前)

 どの様な和刻法帖が伝存しているのか、和刻法帖書目の出版は『和刻法帖』(中野三敏編)収録が現在最大であろう。画像は冊子というスペースに限界があり、とても全容を示すだけの内容にはなっていない。今後、整理が進み画像データベースが構築されてそれが公開されれば、和刻法帖研究環境は進展する。やはり和刻法帖一つ一つの全体が見たいもの。

 実際に和刻法帖一つ一つの全体像を公開するとなれば、容易な分量ではない。さらに『和刻法帖』収録の和刻法帖はおそらく和刻法帖の全容にはまったく及ばない。個人収集の範囲でしかないのである。その事情は、東隅書生の蔵する和刻法帖においても、『和刻法帖』よりいくらか数に於いて勝っていても、遠く全容には及ばないのは同じことで、五十歩百歩といった程度のことだろう。肉筆法帖や字書、書論の類も書学という括りで同類の書物として、目録化を進め、画像データベースを作ろうとしても、個人でできるような規模の仕事ではない。順次整理が行われるとして、和刻法帖の価値を何処に見ようとするのか。書の手本そのものとしての役目は尽きている。故に古書市場でも安価な図書として扱われてきた。手本なら写真製版した肉筆の原典を印刷した良いモノが作られ販売されている。今更現代社会で木版本を手本にして、手習う者もあるまい。つまりはその本が作られた当時を映す鏡としての資料性に注目し研究することになるのだろうと想像する。ひとつは当時の筆記が毛筆を唯一として、その手本として作られた一群の書物であったことは確かだ。現代はもはや日用に毛筆など使わないので、毛筆の手習いをやっているという人は少ないだろう。しかし和刻法帖の時代は違った。毛筆を使って良い字を書く事が必要であった。より上手に書ければそれで生計が成り立つ場合も考えられるような時代であった。その現代とは違う事情を和刻法帖の紙面に探すことができるだろうか。現代は本を読むのが読書だが、文字を読むと同時に文字を見て、書体の違いや書き手の違い、そこに著名な人物の呼吸すら読むという事が可能であった。

 唐本の法帖の研究は先行研究が多いのだけれども、和刻法帖についてはほぼ触れられる事がない。そんなところから和刻法帖について『東隅随筆』や東隅書生の他の原稿では和刻法帖中心に話題とするのだけれど、すると唐本の法帖について語っていないとして片手落ちのような言述と見做される。だが、唐本については語られてきたし、語りたい人も他にいるようなので、ことさら東隅書生は述べようとはしていないのである。必要に応じて唐本の事例と比較する必要があれば、先行研究の成果を借用させていただこうとは思っている。何しろ日本の本の文化は文字の事情と同様に中国由来と考えている。書物もまた中国からの輸入品であり、輸入の文化であったはずだ。ただ、仮名の発明から日本ならではの発達もあったはず。これは中国追随にとどまらず、日本人に合ったなりの発展を見るからだろうと思われる。様々な文化的事物について考える時、その淵源が本当に中国にはなかったのか、中国にあったがそれが途絶えて日本にのみ残ったということも一応少しは考えられなくはならないだろう。事実、佚存書の事例があるように、広い大陸では滅び、狭い島国で伝存することもある。現代の認知の範囲を超える可能性も完全否定できない以上は、想定しておく必要はあるだろう。それでも日本の中で発展し、広がりを見せたというなら、日本人の嗜好に合ったので盛んに行われたのだろうとは言い得るだろう。和刻法帖の事情に引き寄せるならば、当然その元となったのは唐本の法帖であり、これを日本で印刷して提供しようという考えは、輸入品では需要を賄いきれなかったという点に動機をみる。輸入の舶来法帖は高価で、和製の自前法帖なら少しは安価に作成できたのだろうと想像する。出来の良し悪しは当初は輸入品に勝てなかったが、どうして江戸期も後期になれば日本人の器用さも手伝ってか唐本法帖に負けない良質の和刻法帖が出回っている。それは現物を目撃すれば承知できるのである。その印刷法も初期の左版のお粗末なものと比較して正面版のよい和刻法帖では雲泥の差があり、それを一括りにして和刻法帖は質が悪いと発言しては、あまりに和刻法帖を知らない発言といえるだろう。唐本の法帖でも酷いものはある。つまり製品の国籍で法帖の良否は語れないのである。法帖の評価は個別的である必要がそこからも知れる。また、手本印刷としての質もさることながら、法帖の原稿となった筆跡やその伝来、作成に関わった人物、そこに見る序跋文や題簽、封面等書物としての構成要素、発売書肆、版刻者といった周辺情報についても漫然と眺めていては、歴史資料としての和刻法帖の真髄を見逃すことになろう。書の手本として作られた書物ではあるが、それを越えた価値観を見出す扱いが必要である。その価値が見えてきたので古書価格もこれまで通りには行かなくなって、随分と高額な古本になりつつある。なりつつあるのだが、何処までの了解に基づいて値段が付けられているのは、いささか心配なところが多い。実際の和刻法帖研究はこれからなのである。さしたる成果も無いまま、何か古書価格が先行して、よく分からないが価値がありそうなので、少し値を高くしてつけておこう程度のアンバランスな古書価格が流通している感じだ。少し分かった程度では何も成果をまとめる事ができないまま、危うくは投機の対象とされ、または中国に持ち去られる危惧がある。

 唐本の碑帖は、江戸時代から高額であった。評価は現代においても高額であり、それは当然のように思う。しかし和刻法帖はそれに並ばない。唐本の碑帖からいえば、翻刻された和刻法帖など亜流である。ただ、唐本にない和刻法帖は日本人書家の筆蹟を上梓した和刻法帖である。これと唐本の翻刻の粗末な和刻法帖を同列にしてはならない。しかし、古本市場はこれを区別できていない。お高い唐本法帖に並べて同じような価格にして和刻法帖を並べるのは誤りである。それは唐本法帖の価値も危うくするだろう。そこには厳然とした差異を必要とするはずである。和刻法帖が分かるとは唐本法帖との差異も分かる必要がある。『和刻法帖』はその書名の通り、和刻法帖のみを扱った。当然主題はそこにあったが、古書肆が唐本の法帖と和刻法帖とその価値の差を見極められぬまま市場が盲人のように迷走する。古書肆も世代交代があって、法帖知識を持つ世代が減っている。市場で数を見ていても知らなければ評価は出来ない。思い込みと法帖半可通で市場が狂うのである。その被害者は研究者となる。必要以上に高額な和刻法帖を買わされたり、唐本法帖を安価に引き取られたり、古書流通の中心に居る古書肆の店員の知識不足は法帖業界においては深刻だ。そんな業界があったか知らんが、実際の価格を見れば未来の価格がついているものも多い。貧乏書生の手に入らぬ環境になって、癪に障って愚痴っぽくなった。

 和刻法帖の掲載がグンと減少の『東隅随筆』である。左版の和刻法帖など二束三文で並んでいたはずが、すっかり見かけない。近代摺りの板表紙のついた和刻法帖も希に見るが、もはや値段が一桁違う。そんなバカな、と絶句することもある。(『東隅随筆』564号より)

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