資料の保存と使用の問題

資料の保存と使用の問題

東隅書生  

 資料の保存と使用の問題は所蔵者側には常に付き纏う問題で、その解決の一つが文献のマイクロフィルムによる提供であった。その延長にデジタルデータの画像データベース公開がある。デジタル化の普及が、これまで容易に目撃できなかった分権をPC端末の前で居ながらにして閲覧できる環境を提供するようになって資料探しへ費やされる膨大な研究時間が短縮された効果は途方も無く大きい。研究環境の大革命と評価してよい。書棚に並ぶ本の背も変化し、図書目録類の昔高価であったものを揃える必要も無くなり、分厚い目録類の不要となった環境から棚のスペース利用にも変化が見えるだろう。当面は現状のデータ提供の拡大は大歓迎である。ただ、書物の触感は伝わらないし、重さも、摺りの味、使用の紙の種類も画像では提供できないことは前提として、それでも画像提供の効果は大きいのである。勘違いさえしなければ、書物所有の必然も少なくなる。もとより蔵書量と研究量が比例するものでもなく、研究は研究者の資質に負う所がおおきい。環境として善本の多い事とそれに手が届くことは望むべきものだが、その垣根を低くしたのは画像提供の環境である。モノによっては天下の孤本と呼ばれる善本が画像によって世界中に共有化されるのである。それをどのように使用し何を研究するかは研究者に拠るのであって、書物そのものの発するものではない。書物はそこに厳然と存在するのみであり、その姿が液晶画面で検証できるのが現代なのである。世の中の全部の書物がデータ化されて提供される時がくるのだろうか。しかし、それら全てに目を通す生命活動期間を人類という種は持たない。寿命がある。たかだか長くて百年。

 実際は百年も生きないだろうと自覚する。「百年人生」と謳うのは、そう簡単に年金を支払う訳にはいかない政府事情が背景にありそうだ、いつまでも働かせて楽はさせない働き方改革。引き伸ばしにひきのばして年金受給前に死んで頂戴ってか。制度の実質が立ち行かなくても、面子として制度は維持される必要がある。それなら受給をできるだけ遅らせて、働かせれば良い、人生五十年は信長時代、今なら百まで生かそうという狙いだろう。加えて文部科学省の高大接続もいろいろ美辞を掲げ理想を掲げ、理屈を述べるが、結局十八歳に選挙権を与えた都合上、投票率を与党に有利に運ぶためにも教育が必要であり、前倒して実施する必要の現実の中、これまで成人二十歳の大学教育を高校に移すために考え付いた理屈とも見える。政治家主導の選挙対策の辻褄合わせが教育環境に落ちてきての高大接続である。政府は補助金をぶら下げて大学教育の内容にまで介入してきている。政府が想定するモデルケースを言うとおりに実行すれば補助金という名の銭が大学に入る。それが欲しくて右へ倣へとなるのである。国立系の大学なら、スポンサーは国であるから、その施策に倣うのはある意味当然とも言えるが、私学においてもこれが行われる。建学の理念を掲げよと言っておきながら、裏では現金をちらつかせて言うことを聞けという。大学側も私学の矜持というものを以って毅然とした態度をとれればよいが、十八歳人口の減少の中、営業を考えれば補助金はほしい。これは私学としては深刻なことで、地方へ行けば更に大学営業事情は深刻である。教育がある意味での洗脳と考えれば、政府がそれを掌の上に置きたがるのも当然といえば当然の事。

 和刻法帖研究の今後はどうなるのだろう。古本市場は、和刻法帖の無知から少し脱して、古書目録に「正面版」といった印刷法についての分類語を記載する店も出てきている。しかし拓本と左版の違いが分からぬ人もあいかわらず多い様子。書誌学者が和刻法帖としっかり向き合って処理し、あるいは講座で知識普及につとめる必要があるだろう。正面版は拓本法の応用に拠って印刷された日本製の書道手本の印刷法を指す。その際に区別されるのは拓本法を用いない凸字版と左版の和刻法帖である。唐本の碑帖や法帖について同じ用語を用いても困らないのだが、基本的に左版法帖は唐本に存在しないと考えている。日本のつまり和刻本の書道手本印刷の分類法としての用語と考えるべきか、唐本、あるいは朝鮮本の法帖も含めて、印刷法を言う時に、凸字版、左版、正面版を用いるか、少し悩んだのだが、当面は全部に当てて印刷法を語るとき、この三種のいずれかの方法が用いられて摺られていると断言しておくだろう。そしてこの印刷法分類を経る事は和刻法帖を語る上では欠かせない分類条件になることも繰り返し述べるだろう。その三種の印刷法はいずれも整版で行われていて活字本とは区別されるが、整版の中でも違う摺り方があることの認知は分類の際に必須の知識である。

つづく

過去の出来事

過去の本日の朝廷や江戸幕府の人事一覧、その他の出来事を紹介します。ほかに昔に関する雑記など。