斉諧俗談56
斉諧俗談 56
〇倚人[かたわ]
伝承に言う、甲斐の武田信玄の家臣山県三郎兵衛は兎唇[みつくち]であった。山本勘助は片目だった。また福島左兵衛正則の家臣福島丹後は片足が不自由だった。小関[おせき]石見(いわみ)も片目だった。長尾隼人も兎唇だった。これらの人はみな体に障害がありながら武名を轟かせたのである、と。
春秋穀梁伝(しゅんじゅうこくりょうでん)に言う、季孫(きそん)と行父[こうふ]は禿頭であった。晋の郤克[げきこく]は片足をひきずっていた。曹の公子手(こうししゅ)はせむしだった。以上の五人は同時に斉(せい)の国に招聘された。斉(せい)の国では季孫と行父には禿頭の人を出迎え役にし、郤克には片目の人、公子手にはせむしの人をそれぞれ出迎い役とさせた。蕭(しょう)の同姪子(どうてつし)という人が高殿(たかどの、うてな)からこの様子を見て笑った。客は気分を害して立ち去った。斉の人が言った、「斉にとっての災いはこれから始まったのだ」と。
[語釈]
春秋穀梁伝 『春秋公羊伝』『春秋左氏伝』と並ぶ春秋三伝(孔子が編集したとされる『春秋』の注釈書)の一つ。正確には経書ではないが、準経書扱いされる。十三経(じゅうさんぎょう)の一つであるが、五経には入らない。経学の重要書物。
[解説]斉の国は周の功臣の太公望呂尚によって建てられた国。国力が増して覇者にまでなったものの、大夫(大臣、家老)らの力が強くなり、抗争が激化。誰かが君主を立てても別の大夫がそれを殺すといった具合で次第に次々と脱落、田氏が残ったものの、この時はすでに弱小国となり、最後は滅亡。せっかく君主が有能な人物を各地から招聘したのに、体つきや動作が同じひとを出迎え役としたり、それを見てあざ笑う者がいて、そういう国はやがて亡ぶ、という教訓です。一方、甲斐の武田は容貌に関係なく有能な武将を重用した。対照的な出来事を並べることで印象を強くさせています。
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