斉諧俗談48

斉諧俗談 48

(承前) また今昔物語に言う、巨勢金岡(こせのかなおか)という者がいた。

 〔割注〕元は難波氏である。

中納言野足[やそく]の子である。清和天皇より醍醐天皇まで五代の帝に仕え、官職は大納言まで至った。かつて菅丞相と親交が深かった。絵が得意で霊妙な境地を切り開いた。初めて紫宸殿の聖賢の像を描き、小野道風がその絵に讃を書いた。金岡は一条院の御代に、河内の国金田村に住んでいた。ある時、絵馬を描いて金田の神社に奉納した。ところが、毎夜その絵馬から馬が飛び出しては近郷の稲を食い荒らした。金岡はその事を知ると、その馬に縄を書き繋いだところ、それからは馬は出なくなったという。また古今著聞集に言う、朝廷に所蔵する金岡が描いた絵の馬が毎夜出ては、萩の花を食い荒らした。そこで画工に命じて、綱で馬を繋ぐよう描かせたところ、それ以後馬は出なくなったという。また仁和寺御室(にんなじおむろ)に、金岡が描いた馬がある。毎夜抜け出しては近在の稲を食った。村人たちは怒り、馬の両目をくり抜いたところ、それからは出なくなったという。

三才図会に言う、僧の弗興[ふっきょう]が描いた龍は、宋の明帝の時、長い旱魃のために天地に降雨を祈念したが、なんの霊験もなかった。その時、弗興の絵を水のそばに置くと、時にはそれに感応して雨が降るという。また類苑(るいえん)に言う、徐諤[じょがく]という人が牛の絵を得た。この牛、昼は抜け出して草を喰い、夜は戻って寝る。徐諤はこの絵を後主の煜[いく]という人へ贈った。煜はさらにこの絵を宋の太宗皇帝に献上した。皇帝は後苑に張り、群臣に牛が絵から出る仕組みを聞いたが、誰もわからなかった。僧禄賛寧[そうろくさんねい]

 〔割注〕通慧大師である。

が言うには、日本では海水が干上がると、灘の石が少し露出する。倭人は、はまぐりの中に残ったしずくを集め、それを物につけておくと、昼は隠れて夜になると現れるようになるのだということだ。


[解説]一見、不思議な絵も、実は仕掛けがあるようだ、というお話。

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