雑 感

雑 感

東隅書生  

 人はめったに一〇〇年は生きない。大概一世代は三〇年で計算する。江戸期の平均寿命は短命であったし、家督相続から隠居まで、せいぜい三〇年という計算だ。その人物を見知っているといっても人の記憶に残って生前から一〇〇年あるかないか程度ではなかろうか。その後は記録のみで存在が語られ、大概の人間は忘却の中に消えていくものである。記憶は失われるものだが、よすがに墓碑面に略伝を刻むのはそんな時間の制限に棹差す意図がある。存在証明の碑文である。その墓碑も無縁となれば忽ち廃絶し、石材としてリサイクルされる。最近は破砕して砂利にするそうな。墓碑のままに堤防の土台石に使うと人目に触れると騒ぎになる昨今である。もとより墓碑を立てた人々にとっては不本意なこと。その意図を汲むならば碑面は拓本にして後世に伝えてあげればよかろうが、せめて伝える価値ある筆跡で行われているのがよろしい。これが今日なかなか実現しない。残すべき碑に相応しい筆跡とは何か。書き手の名ではなく字姿の方に価値を見るべきなのだろうが、今は逆だ。それは近代以降の習慣というか価値観というか。著名人でも筆跡のお粗末なものを石に刻んで残しては末代までの恥になりかねない。が、そんな碑をみると、こちらが赤面してしまいそうなものが実際にある。こればかりは立碑者の価値観で作るものなので外野がトヤカク言うものではないが、心中はそれでよいのかと思うのである。 

 名は目にしたり耳にしたりすることがあっても、実際に会見する機会は人生に一度か二度、という人物もあれば、月次のように、あるいはもっと頻繁に会う機会のある人もいる。しかし、互いに生きている期間の間に限られるのは自明だ。

人と会うということが、歴史の時間の上では稀な事であると思い至れば、出会いとは貴重な一瞬であると自覚する。それをただ一期一会と言い切ってしまって理解せよと。今日のSNS発達の世界で空間を共有する出会いと液晶画面ごしの関係について、生活環境の変化から何を摘み上げてその価値を言うのか、容易に共感できそうでいて、少し違う世界か。

 同好の士があってこそ成り立つ趣味があるだろう。同好とは嗜好を共にし共感できる関係にある者、それが集まって同好会。学問であれば研究分野を同じくする学会となろうか。これが一人孤立しているとその価値を共有することが出来なくなる。ただのヘンな親父と指差されるのだ。読書よりゲームが流行るのも似たもので、昔なら「あれ読んだか」と話題の小説や論説など同じものを読んだ前提でコミュニケーションが成り立ったが、いまはそれがゲームなのだ。「あのゲームをやったか」というより具体的に進行に沿った場面やゲーム内の会話やアイテムといった様々に用意された環境が共有しやすくなっている。ゲーム作家側からそこを狙った価値が提供されているのだから、すぐに話が合う。ゲームを通したコミュニケーションが構築され、広がり、産業にまでなっている。それが意図されて導かれている。利用者側の自然発生ではない準備されたイベントに満ち満ちている。それは予定されていて安心して入り込め、容易に仲間らしき人々と繋がれる。それを「絆と呼ぶのだっ」という。軽めの運命論も少し混じって、世の中を支配していく。提供者の準備した価値観に乗って生きていく人の何と多いことか(笑)。(『東隅随筆』568号より)

過去の出来事

過去の本日の朝廷や江戸幕府の人事一覧、その他の出来事を紹介します。ほかに昔に関する雑記など。