政談451
【荻生徂徠『政談』】451
松平民部大輔殿が長門の萩に学校のようなもの(明倫館)を作り、孔子祭も行わせ、資金として五百石を貸し付け、毎年書籍の購入料として五百石、合わせて千石ほどをかけて家来たちに学問をさせていることから、今は家中に学者を多く出しているほど。しかし、西国大名の習性として、公儀を憚って内密にしている。十万石以上の大身ともなれば、千石程度の物入りは大したことではない。お上より仰せつけられれば何でもやれるし、また、仰せつけられずとも、やり方次第で自然と学者を取り立てるようになる。とにかく世間で久しく絶えていた学問を再興させることであるから、よほどお上の御世話がなければ思うようにはゆかないことだろう。
[語釈]●松平民部大輔 萩藩5代藩主吉元。 ●萩明倫館 1718年(享保3年)、萩藩5代藩主毛利吉元が萩城三の丸追廻し筋に創建(敷地940坪)。1849年(嘉永2年)には、13代藩主・毛利敬親が藩政改革に伴い萩城下江向へ移転(敷地15,184坪。建物総坪数11,328坪、練兵場3,020坪)。図書館としての機能も持っていた。1863年(文久3年)、藩庁の山口移転により、上田鳳陽が1815年(文化12年)に山口市中河原に開設していた私塾山口講堂(後に山口講習堂)を山口明倫館と改称、藩校に改め、萩・山口の両明倫館が並立することとなる。責任者として明倫館総奉行の職が設置され、加判役支配下であった。水戸藩の弘道館、岡山藩の閑谷黌(しずたにこう)と並び、日本三大学府の一つと称された。
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