江戸時代の出版と書体
江戸時代の出版と書体
東隅書生
江戸時代が出版の時代であった、とはよく言われる。商業出版が行われるようになり、出版の力が知識を広く世の中に開放することになる。
漢学においても、これまで秘伝とされてきた読みが、幕府の儒学振興に合わせて四書五経の出版が起こり、広く読まれるようになる。儒教経典の広がりは近世期の出版力に負うところが大きい。
「書」においても同様に、書の手本として各書体知識が和刻法帖出版によって広がる訳だが、中国の書法も日本人書家の手本も和刻法帖出版によって一般化していくのである。手本がなければ書法の普及は無く、御家流手本にしても唐様の手本でも、肉筆手本で間に合わなければ印刷手本に拠ることになる。需要に対して応えるだけの出版力は近世になって実現したとみてよいだろう。
出版によって世の中に広げる手法は現代までも連綿と続くが、メディア形態の変化は近世と現代の事情を一元的に語ることを許さない。そこは見極めて語る必要があるはずで、昔から継承されているとは言い難い部分も多々あるだろう。また求める効果もできる事も、結果の現れ方も違ったものだ。
江戸期に注目するのは、それが毛筆世界の最後の時代と呼べるからである。毛筆時代の出版の最後の時代とも言える。以降文字が規格化された画一的活字に変質した出版の中の知的成果物と毛筆由来のそれとは同等に語れないはずである。その境界線の時代が近世から近代なのであり、ここに単純な文化的線引きができないところから、考える余地が大いにのこされているのである。
毛筆の放擲が近代化であると指摘してきたが、それとて何時という言明はできない。ただ、現代に毛筆の日常利用がなくなっているのだから必ず筆記環境の変化は起こったのであり、その事実は文化的大革命の事件なのだが、その時を指差せないために気がつかずに過ごしているわけだ。ただ近世期の多くの時間と多くの人々は毛筆の文字だけの世界に住んでいたのも一方で事実だろう。
そこでどのような筆記があり、どのような毛筆由来の文字が残されているのかを概観し、できれば整理して類型化できれば、あとからこの時代の文字に関する事柄を考える時に便利なのではなかろうかとも考えるが、何しろ研究方法論からして整備されていない。というより既存の立ち位置から見ていたのではどうも分からないらしいことが分かってきた。
読み方の前提が現代人は活字基準で、近世人はそれすら念頭に無い。文字に対する前提がそもそも違う。文字の覚え方も書きかたも読み方も、考え方も、何もかもが違う。違いの発生は筆記環境の違いであり、毛筆で書くか書いていないかに換言できそうなのだが、現代人の中での共有理解がないとこれ以上の言及も理解されないだろう。
ここに現代人が克服すべき研究テーマがある。現代人にも分かる近世人の毛筆文字の感覚への同調。あるいは「読み」と言ってしまってもよいのだろう。「読み」には「見る」要素も近世には含まれる。目に入ってくる文字の姿も見て読むのである。活字は単に読む記号として理解されている。文字の姿に揺らぎはなく、同じ文字は同じ姿をしている。それは文字の前提である。この前提が近世の毛筆文字には無い。無いどころか敢えて文字の姿を変えて、同じ字姿を並べない工夫まで行う。蘭亭叙の「之」の十七文字に一つとして同じ姿が無いようにである。この違いとそこにある価値観を読取る必要があるという前提の共有がいる。
そもそも同じようには書けても同じ文字にはならないのが毛筆で手書きの文字の事情である。文字の並べ方に潤渇をつけ、大小を混在させ、揺らぎを求め、呼吸に変化をつけて文字の並ぶ画面を単調に作らぬようにしようとする書き手がいる。一方で同じ文字はできるだけ同じに、筆跡の個性を可能な限り殺して文字を整斉に並べて書くようにした文書もある。後者は活字化によって容易に実現するようになる。しかしそれまでは毛筆文字でそれを行っていたところがある。明朝体の活字になる前の版下筆記方法の求めるところは没個性であったろう。館閣体と呼ばれる筆法も変化を求めない画一性重視の書き方だろう。そもそも用途が違うのである。
用途によって書き分けることが書き手の手元で容易にできたのはそれが毛筆で書かれる文字であるからだ。そこにさらに書体の選択なども入ってくるだろうし、どのくらいの大きさで書くかの選択もあるだろう。それが個人の嗜好に基づき選択されるものか作法があってそれに沿って書かなくてはならぬものかといった筆記場面の事情も考えられる。そこを考慮して読むには当時の作法も知識として必要になる。
どのように書かれるべきで、書き手はその時どのように書いたのか。書いた文字は当時の水準としてどのように評価できるのか。あるいはそれを見たときに書風の系譜の中に置く事ができるかは見る側の器量にも拠って見え方も違ってくるだろう。どのように読まれるか、どこまで読まれるかを書き手側も当然意識していた。想定の対象に対して相応しいように書いていたはずである。その見極める目を現代人も持つ必要があるだろうことをまず前提として、当時の文字を見たいもの。(『東隅随筆』566号より転載)
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