政談442

【荻生徂徠『政談』】442

(承前) まず稽古事についてだが、公儀の役人の稽古は、世間の人々はせぬものである。大名の家でもやっていることばかりで、当たり前のことだからだ。幕府による講釈所(学問所)では質問をすることも出来ず、丁寧に教えを受けることもできない。自分が慕う師に対しては、費用がかさんでも付け届けをしてまで稽古をする。これが人情というものである。

 その上、師は尊く、弟子は卑しい立場であるから、師に威厳がなければ教育は成り立たない。役目として講釈所で講義をするのでは、師に威厳などない。このような形は道理に背くのだから、いくら教えてもなんの益もない。


[解説]あくまで仕事として教授、教育をしても、それでは教師に威厳がなく、従って弟子や生徒はついて来ない。孟子は「天下(てんが)の英才を得てこれを教育す」るのが楽しみであると言う。夏目漱石は『愚見数則』の中で「今の書生は学校を旅屋の如く思ふ、金を出して暫らく逗留するに過ぎず、厭になればすぐに宿を移す、かゝる生徒に対する校長は、宿屋の主人の如く、教師は番頭丁稚なり、主人たる校長すら、時には御客の機嫌を取らねばならず、況んや番頭丁稚をや、薫陶所か解雇されざるを以て幸福と思ふ位なり、生徒の増長し教員の下落するは当前の事なり」と明治になってからの一斉授業方式の公教育を痛烈に揶揄している。教え、教わるということは、互いに信頼・心服し、情が通じて初めて成り立つもの。書物に書いてあることを一方的に講釈し、たまに指名して質問したり、試験こそがすべてであり、それが学歴となり、人生までもが決まってしまうようでは、物事を教わり、知るという楽しみなどまったく知らないまま一生を終える。勉強とは自発的、自主的にやるものだが、独学は限界がある上に偏狭に陥りやすい。そこで、先達である師から情の通った学問を教わるが、幼少の時からシステム化された学校に入れられ、その中であてがわれた担任や教科担当に一方的に従わされる。その教師がどのような見識を持ち、どういう考えをしているのかといったことは知る必要がないという状態。それ以前に、その教師の年齢や住まいすら知らぬまま終わることも少なくない。今は個人情報の悪用を恐れて、教員の住所や年齢などの一覧表すら渡されない。江戸時代は義務教育などなかったから、教わりたい者は勝手に教わり、これと思う師のもとに通って講義を受けた。吉宗以前は農民らの読み書きは原則禁止だったが、まったく文字を知らないのでは、特に本百姓といった責任ある身分は年貢の石高や実際の収穫高などを知らなければ、役人が誤魔化した場合、帳面を見てもわからない。そこで、一つには必要のため、さらには本を読んだり手紙のやりとりをしたい、腰折れ(俳句)の一つも詠み書いてみたいということから、読み書きのできる人(浪人や住職、庄屋など)にひそかに教わった。切実な動機であり、教わる人に対する信頼があるから、めきめき上達した。昔の人たちの文章力、読解力がすさまじいのは、自発的であり、教育に情が通っていたからである。大学も本来は「あの教授にぜひ教わりたい」といったことが動機となるはずだが、熾烈な受験競争と、教育ビジネスによる煽りから、ブランド校ほど偏差値が高くなり、結果、教わりたい教授・学者のいる大学は自分の学力ではとても無理で断念せざるを得ないといった状態。がむしゃらに勉強すれば合格できるとしきりに煽る者が多いが、受験のための勉強ほどつまらないものはない。それでも身に付く人はいいが、勉強そのものが嫌いになり、知性や教養に対してまでも憎悪するようになってはおしまいだ。私事だが、私の場合、専門的に学べる大学は限られており、しかも上位校ばかり。無謀ながらだめ元で受けて合格したが、猛勉強というものはせず、予備校にも通わず(学校の受験用補習講座は受けた)、好きな科目を中心にやり、ついでにその他のものをやるといったやり方をした。でなければ、勉強が嫌いになり、書物を投げ出して受験もやめ、進学せず就職したことだろう。一時、そうなりかけたこともあった。

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