「現代人は江戸時代人たちにとって想定された読者では無い」

「現代人は江戸時代人たちにとって想定された読者では無い」

東隅書生  

漢字と仮名の文字世界の中には住んで居るが、文字の覚え方、書き方、感じ方など文字環境の変化の中で、文字への感性は明らかに近世人たちとは違う世界に現代人は住んでいると断言できる。現代の文字事情、筆記事情を近世の人々は到底思い及ばないだろう。

そんな現代人に江戸期の文学がどのような読まれ方をしているかも多分想像していない。読まれる前提など持ち合わせていなかっただろう。しかし、それでも書き残し、伝えたということは、想像外であったとしても日本人が世代を超えて存在し、手に取る可能性の少しは思い得たのだろうか。そこも考えていない場合もありうるか。永遠、未来永劫の言葉はあっても、その時のはるか未来の人々の文字や教養、日常がどのようであるかは、知る由も無く。ただ続いてあるものと期待するまでである。

後世からの目で考えれば、過去の記録を紐解くことによってそこで何か行われ、何を考え、どのような表現をしてきたかは、伝えられた資料から、過去の世界の一部を見ることができる。後世への期待は感じられるがそこに現代人のわれわれそのものを目撃することはないだろう。誰もPC端末で液晶画面を見ながらキーボードを叩いて執筆している人間を思い浮かべたとは考えにくい。ただ世代が続いて日本人が今も生きているだろう期待はあったはず。故に後世に向けての著述があり、立碑があり、記録が行われた。想定読者は多くは目前の人々であり、時代を同じくした人々であったろう。

しかし、時には子孫に向けて、家訓の形で思いを記録したり、辞世として没後の人々へのメッセージを残したりしていた。だが期待された読者としてどこまで現代人は想定されていたか疑問だ。

たぶん「現代人は江戸時代人たちにとって想定された読者では無い」として、江戸時代人たちの知的成果物としての作品を目撃するときに、どのような読みを現代人は行うべきか。現代の価値観の中で読む、という方法は第一歩となるだろう。

もはや江戸期に生を受けた人間は存在せず、当時の教養人もいない中で、文字のみが書かれた形や刷られた状態で、あるいは刻まれて伝わってきている。文字である以上、読むことはできる。どの様な読みが可能なのか。現代の教養に刷り合わせた時、書かれた環境と現代の環境があまりに違っていて、単語にも注釈をつけなければ理解できない語や言い回しがあることに気がつく。ことによっては、日本語で書かれているが、文字すら普通に読めない場合も生ずる。もはや外国語扱いに近いことになる。そして近世という異文化を感じることにもなる。そこで彼ら近世の人々は何を基準にしていたのか。当時の価値観に興味が起こる。材料は多々あるが、それらをどのように読むかの方法論の問題に当たる。あまりに現代に引き寄せては、当時の意識と大きな乖離を生むだろう。

通常では共有されない前近代の価値観、あるいはそれがあるとして一応背景に意識しながら、現代人が近世の著述を読む場合、どこまで当時の意識に近づけるのか、もはや当時の人がいない中での判定は困難なのだが、想像力を働かせて、こうではなかったかという言明までは可能だろうか。現代的評価がなかった以上、それを持ち込んだ読み方は、近世のものを読んでいたとしてもそれはたぶん現代の読みである。近世のものを近世的に読む試みは必要なかろうか。否、そこに差異を発見することにより時代の持つ特徴が鮮明に表れるか。

(『東隅随筆』第564号より著者の了解を得て転載)


 「現代人は江戸時代人たちにとって想定された読者では無い」この言葉は衝撃的である。もちろん、先人たちが明確に「平成」の現代人を指してそのような表明をしたわけではないし、後世がどのような社会になっているかなど知る由もない。逆に、著作行為一つとっても、その時の著者や記録者たちがわざわざ手間を惜しまず書き残したのは、残すことによって後世の人たちに読まれることを意識し、願いがあるから。日記もそう。個人的な心情や身辺雑記を綴った日記はあくまで自分のためのもので、他人に読まれることは想定していないし、見られるのは嫌だという人もいる。しかし、形にしたものは残る確率が高くなる。自分で焼却処分でもしない限り、死ぬ間際に焼き捨てるよう頼んでも、それが実行されずに残り、著名な人のものでは公刊までされて我々が読めるといったことも生じる。だから、綴った以上は多少なりとも誰かに見てもらいたいという期待があることは否定できないと言われるゆえんでもある。

 で、「現代人は江戸時代人たちにとって想定された読者では無い」という言葉。これは、誰でもいいから見てほしいという願いとは違い、大変に厳しい制約である。我々は相手にされておらず、むしろ排除されているとさえいえる。後世がどのようなものか想像がつかない以上、想定することも不可能だが、ここでいう想定とは、次代を越えて普遍的、常識的な態度を指すととらえてよいだろう。

「平成」(私は明治以降の元号のあり方には疑問を持ち、反対の立場で、ふだん使わないが、ここでは必要上敢て使用する)の時代は当初は「昭和」の延長線上にあったが、次第に閉塞感が漂うようになり、現政権となってからは「愛国」「伝統文化」が強く叫ばれるようになったが、この国を慈しみ、先人たちの築いたもの、受け継がれてきたものを大切にし、守っているかといえば、現実は逆。身をもってそれらを実践し、師表として市民に示す立場の政治家が率先して破壊している。国会の運営ひとつとっても、最善のものとして慣例・慣行化されたさまざまなものが与党側によって砕かれ、熟議は無用とばかりにすぐ裁決する。日増しにこれがひどくなり、ついには審議すらされぬまま裁決という事態に。いくら話しあっても平行線、これでは時間の無駄、ということらしいが、なぜ平行線のままなのか。どう折り合いをつけるかが大人のやり方のはずだが、最高責任者を自認する者の意向が号令となり、何が何でもそれを実現させなければならない状態になっている。これは大変危険なこと。

その最高責任者だが、箸の持ち方が鉛筆の持ち方である。箸は伝統の象徴的なものだが、これさえ満足にわが物とすることができていない。これは当人だけの問題ではない。周囲の誰もが正しい持ち方を教えなかったことになる。小さいうちにしつけをしておかないと、大人になってから恥をかく。首相ともなれば一挙手一投足が注目され、画像、映像として伝えられる。本人が気が付かなくとも、周囲でわかる人は大勢いるはずだが、誰も注意しないというのは、なんと冷たい人間関係ではないか。そう、この冷たい関係こそが「平成」に横溢し、言い知れぬ閉塞感となっているのである。政治にしても、市民が望んでもいないことばかりを次々と政権が示し、与党が強行成立させる。完全に民意は無視され、排除されている。

こういう「平成」の世を江戸時代人が読者として想定していない、否、むしろ相手にしていないということは大いにあり得ることである。(大森博子追記)

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