「書」の役割と相応しい字姿
「書」の役割と相応しい字姿
「書」の役割と相応しい字姿というものが共有されていた時代として近世の毛筆文化の時代は確かにあった。現代もその片鱗は見かけるが、ほぼそのような精神はなくなったものと思われる。そのように書かなくてはならなかった時代。定型化した書のある時代。自由な「書芸術」から見れば、そんな書は全時代的で価値のないモノと見られてしまう。それは今日の価値観に照らしてそのように思うのである。
定型がルールとして認知されていた価値観世界の中では、その定型に価値があった。「下馬札」など好例だろう。大福帳の表書きもそんな内であったろう。
↑津田左右吉旧蔵「下馬札伝授」(源久道(写), [書写年不明] 早稲田大学古典籍総合データベースより)
↑大阪商業大学商業史博物館蔵 「大福帳」表紙(文久4年(1864)正月吉日 鴻池新十郎)
↑帳面師開業広告 大福帳御誂御好次第(土浦本町 井上定七 早稲田大学古典籍総合データベースより)
今日の生活習慣の中ではほぼ要求されることはない。辛うじて学校の式典や葬祭書式に名残があろう。しかそれも風化しつつある。
いつぞやの卒業式の看板には毛筆フォントの行書体を拡大して利用しているものを見かけた。毛筆書体なら何でも良く、草書では崩しすぎて読みにくく、楷書なら活字と変わらないので、毛筆書のイメージとして行書が正式な毛筆っぽいのでそれを選んだのだろうが、式典の中で「行書」の使用はなかろうと思うが、そんな意識は働かなかったのである。それを指差してとやかく言うのは大人気ないし、と放置されるので、式典を目撃した人々もそれでよかろうといった認知が広がり、いよいよ書体への意識は崩壊していく現代人なのであった。
書体にヒエラルキーのあることは漢字のみならずエジプトのヒエログリフにもあるという。書体には使いどころといったものがあるはずなのだが、漢字が感字になりつつある現代では、文字の選択も書体の選択も無制限の非常識が平気で通用することになっている。下手に書いて満足するのもイカガワシイな。
「書」を習うということが少なくなった。毛筆を日用に使わなくなったという生活習慣の変化が大きく原因している。硬筆のペン習字というものもあるが、これも皆がやっている訳ではなく、肉筆書きのお粗末な人は多い。ワープロが普及して助かった口の人も多かろう。
しかし、どうしても手書きせねばならない場面に出くわす事はある。自筆サインが必要な書類があったりするのだ。ハンコで代替が利けば助かるがそうでない書類がある。精々自分の名は人に負けないくらい習っておくのがよかろう。が、サインなら個性的に他人が真似られぬような癖で書くのもありだろう(もっとも可読性不足で書き直しになる場合もある)。つまり手で文字を書く文化が全くなくならないのであれば、ある程度しっかりとした文字を書く訓練は必要なはずである。
文字を覚える際に、書き取りを繰り返した経験がある年代以上にはあるだろう。それは欠かせない識字の作業のはずだ。そしてより良く書くには、繰り返し書くことを訓練する必要がある。それをペンではなく、毛筆で行えば「書」の練習になるだろう。だが「書」の訓練を必要と感じる現代人は少ない。日用に使わないからだ。しかし、文字の線の運び(運筆)を学ぶには、毛筆は有効だろう。実際に墨をつけて書くならば、書の線を安定させるために毛筆を一定の保持に神経を使う。硬筆では起こらないこと、押し付ければ線は太く、持ち上げれば細く。毛先に神経を集中して自由に操作できるようになれば、具合は良い。その仕組みを体感し毛筆の特色を掴む事は、手で線を引いて書くという行為全てに有益なものとなるだろうが、そう考えない現代人は多いのであった。
故に毛筆利用は忘れられていく。
※以上、『東隅随筆』第541号を著者了解のもと転載の上、画像を補いました。
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