元号379

【元号】379

※これは拙ツイッターアカウント(大森博子 Hiroko Ohmori @111shidan  )にて連投しているものです。今回は長文となるため、こちらにアップしました。

現在、元号は元号法の定める所となったものの、公文書をはじめ、絶対に元号を使用しなければならないという規定はありません。つまり、日常では元号であろうと西暦であろうと構わないわけです。慣習を根拠として元号を基本とし、国内での文書は元号とするのが当然だ、と主張する人がいます。しかし、元号法制定以前の慣習として使われてきた時代と、元号法が制定されて以後とは同一とすることはできません。法律がある以上はすべて法律に基づくわけで、その法律に文書は元号を使用することといった条文がない以上、慣習を法より上に置くことはできないし、むしろ慣習といったあやふやなものを明文化させることで形としたわけですから、慣習通りやれ、と命令することはできません。

では、長らく慣習としてやってきた過去はどうだったか。

日本は奈良から平安時代にかけては律令による法治が確立されており、中国の唐律の焼き回しとはいえ、行政が法によって動いたことは当然とはいえ大変進歩的なことでした。

『養老令』(ようろうりょう)の「儀制令」に「凡(およそ(すべて))公文の応(まさ)に年を記すものは、皆年号を用ふべし」とあり、公文書はかならず「年号」を記載することが定められていました。この「年号」は公年号、元号のことです。

これを見ると、法制化されているのなら当然だと即断してしまいがちですが、もちろん根拠となる法令がある以上従わなければなりませんが、当時の元号に対する認識は今では考えられないほど重いものでした。つまり、難陳(なんちん=候補として上げられた元号について学者らによって賛成・反対双方から理由を述べ、互いに議論すること。後日、実例を紹介)を経て決定された段階で、元号は天子(天皇)によって定められたものとなり、国民(当時の言葉で「蝦夷」人、「奄美」人も含む)はその元号および暦を奉じ(使用し)なければならないとされていた。天子が元号や暦を定め支配するという思想も大陸からもたらされたものですが、日本古来のものがなく、行政上これらがあったほうが便利なわけですから、さまざまな文物とともに日本にも根付きました。

やがて武士の台頭とともに日本は多くの「国」が作られ、律令制はいつしか廃れて、独自の法制が立てられるようになったものの、天皇制とともに元号は維持され、根拠法がないまま慣例として戦後まで使われ続けました。これをそのまま「伝統」「文化」として絶対視するのは乱暴で、そのために元号法が改めて制定された。その狙いは『養老令』よりも踏み込んで、天皇一代につき元号も一つ、つまり天皇と元号を一体化させるといったことですが、さすがにこれは条文に明記されませんでした。

では、なぜ慣例として続き得たのか。これこそ政治利用によるもので、将軍が実権を握るようになると、元号についても容喙するようになった。形式上はあくまで朝廷方において公家たちが考案したことになっているものの、時代が下るにつれて将軍による介入が強まり、江戸時代には将軍が認めないと決められないといったこともしばしばあったほどです。元号は朝廷が作り幕府が認証する、と言ってもいいほど。こうなると漠然とただ受け継がれた伝統とは言えず、政治的に積極的に使われたと言えます。ただ、天皇と元号を一体化させることはなく、新天皇即位を記念して立てられた新元号が、災害その他により数年で変えられてしまうといったことが続き、慣例・伝統という点でいえば「明治」以降が特殊で異様なものとなります。 つづく

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