政談396

【荻生徂徠『政談』】396

(承前) 今は近流・中流が無くなったが、これは戸籍の法が立たず、人の心のままに日本国中どこへでも移動してはそこに居住する世の中となったためであり、そのために近流・中流という処分は自然と消滅した。源平の頃、新大納言成親(なりちか)卿が備後に流され、妙音院殿が土佐に流された類は、武士が預かって警護したのが貴人だったからであろう。頼朝や文覚(もんがく)が伊豆に流され、伊勢の三郎が父の上野へ流された類は、武士に預けられ警護された様子がないのは、この時分までは戸籍の法が確立していたことから、自由に他国へ行くことができなかったからであろう。


[語釈]●新大納言成親 藤原成親(1138-77)。治承元年(1177)、僧西光・俊寛らと京都鹿ケ谷(ししがたに)で平家討伐を企てたのが露見し、備前への配流され、解官。平重盛から衣類を送られるなどの援助を受けていたが食事を与えられずに殺害された(『愚管抄』)。 ●妙音院 藤原師長(1138-92)。頼長の二男。保元の乱のため土佐に配流(1156)。のち赦免。 ●頼朝 平治の乱に敗れ、翌年の永暦元年(1160)に伊豆に配流。流刑になっている間に伊豆の豪族・北条時政の長女である政子と婚姻関係を結び長女・大姫をもうけている。治承4年(1180年)、伊豆を制圧した頼朝は相模国土肥郷へ向かう。頼朝らは本拠地三浦を発した三浦一族と合流する予定であったが、その前に真鶴付近で石橋山の戦いに突入することに。頼朝軍三百騎は平氏方の大庭景親、伊東祐親ら三千余騎と戦って敗北し、土肥実平ら僅かな従者と共に山中へ逃れた。数日間の山中逃亡の後、死を逃れた頼朝は真鶴岬から船で安房国へ脱出した。 ●文覚 (1139-1203)平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・真言宗の僧。父は左近将監茂遠(もちとお)。俗名は遠藤盛遠(えんどうもりとお)。文学、あるいは文覚上人、文覚聖人、高雄の聖とも呼ばれる。弟子に上覚、孫弟子に明恵らがいる。京都高雄山神護寺の再興を後白河天皇に強訴したため、渡辺党の棟梁・源頼政の知行国であった伊豆国に配流される。文覚は近藤四郎国高に預けられて奈古屋寺に住み、そこで同じく配流の身だった源頼朝と知遇を得る。 ●伊勢の三郎 伊勢義盛(いせよしもり)、平安時代末期の武士で源義経の郎党。『吾妻鏡』では能盛と表記されている。『平家物語』では伊勢鈴鹿山の山賊、『平治物語』では上野国で義経が宿泊した宿の息子とし、『源平盛衰記』では伊勢出身で伯母婿を殺害して投獄され、赦免されて上野国で義経と出会い「一の郎党」となったとするなど、いずれも物語に描かれているだけで、実際の出自は不明。文治元年(1185)11月、義経と頼朝が対立し、義経が都を落ちる際に同行。九州へ向かう船が暴風雨により難破し一行が離散した後、義盛は単独で潜伏するが、伊勢・伊賀の守護である山内首藤経俊を襲撃するも敗れて鈴鹿山へ逃亡、文治2年(1186)7月25日 鎌倉方に発見され斬首、梟首された(『玉葉』)。絵は伊勢義盛像(菊池容斎画、江戸時代、『前賢故実』収録)

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