政談342

【荻生徂徠『政談』】342

 ●養子の事

 養子の事、他の苗字の養子や婿養子は、古の律令では認められていなかった。北条家の御代に、所領を女子に譲る事を認めてから他の苗字の者に相続することが起こった。これは、頼朝卿の跡目を藤原家で継がせ、これにより天下は北条の手に入る謀略が狙いである。その後、戦国の時分に、人の国を取る計略として、他家へ我が子を遣り、亡びた家の家来をつなぐために、その養子とさせて他の苗字を名乗らせる類が世の風俗となり、他家養子・婿養子を許さないわけにはゆかなくなった。しかし、これは律令に違反していることであるから、禁止する必要がある。身分違いの者が金で人の跡目を買い、町人が小普請手代や座頭など御旗本に紛れ込んでいる類は、とても数えきれないほどである。先祖の勲功により頂いた知行を、他家養子や婿養子となったり、金で買うといったことは、あってはならないことである。


[語釈]●苗字 原文は「苗」。戦後、当用漢字で「苗」の読みに「ミョウ」が加えられなかったため「名字」と書くのが一般になったが、江戸時代より前は「名字」と表記していた。現在、名字と姓は同義で使われているが、もともとは「名字」と「姓」・「氏」は別であった。例えば、清和源氏新田氏流を自称した徳川家康の場合は、「徳川次郎三郎源朝臣家康」あるいは「源朝臣徳川次郎三郎家康」となり、「徳川」が名字(苗字)、「次郎三郎」が通称、「源」が氏(「姓」、本姓とも呼ばれる)、「朝臣」が姓(かばね=古代に存在した家の家格)、「家康」が諱(いみな、つまり本名)ないし実名(じつみょう)になる。戸婚律では「異姓の男を養う(=養子とする)者は、徒一年、与うる者、笞五十」と定められており、処罰の対象とされた。

過去の出来事

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