政談340
【荻生徂徠『政談』】340
(承前) 以上の話は寛文・延宝の頃のことである。この頃まではこのような人も世間にはいた。しかしその時分より世間の風とは隔たり、平兵衛のことを人々は「阿蘭陀人」(オランダ人)とあだ名をつけた。今の世は下の人になんの料簡もなく、ただ上の指図を受けるのを頭(かしら)も役人も好むゆえに、伺いにも違いがあることを知らないようである。
[解説]下の者も自分の考え、意見を持ち、それを臆せず上の者に伺うのがよい、という徂徠の考えは、そもそも徂徠自身がそのような性格であり、特に学問に関してはまだ世に出ぬ前からすでに一家言を有していた気性による。
元禄5年(1692)、房総から江戸に戻った徂徠は父から独立して、芝の増上寺門前に居を構え、私塾を開いて儒学を講じた。まだ27歳である。ありきたりな教え方でも儒学といえば武士にとっては必須の学問、教養であり、ある程度塾生は確保できただろうし、当時はそれで充分暮らしていけた。しかし、学問に対して妥協を許さず、強烈な信念を持っている徂徠は、破天荒なやり方を主張した。
漢文はもともと中国(当時は俗に唐(から)とか唐土(とうど、もろこし)と言った)語であるのだから、外国語である。外国語である以上、はじめからそのまま中国語として上から下に読め、いちいち下から上に返ったり、「於」や「矣」といった字を置き字として飛ばすのではなく、これらの字も意味があるのだからちゃんと読め、ということを主張した。とはいえ、漢文というのは中国における古語であり文語である。現代中国語をマスターしても漢文が読解できるものではない。しかし、徂徠は上から原音で読むように指導した。中国語が覚えられない人は、できるだけ日本語の俗語に翻訳して読めと言った。つまり、訓読を排除することから漢文読解をはじめたのである。
ちなみに、徂徠のこの方法、信念は、誰か偉い師から教わって得たものではない。将軍の怒りにより父が江戸から出されて房総の農村に心ならずも住んだのに同行し、10年にもわたり独学独習で身に着けたもの。大変な努力家である。京都学派の巨人、故・吉川幸次郎博士も漢文を始めたのは学生になってから、中国語もその後習い覚えたもので、スタートは大変遅かった。代々漢学者の家系の教授・博士連中はそれこそ五つ六つの頃から父に怒られながら素読を習い、家は蔵書で満ちているといったのとはわけが違う。その吉川先生、共鳴するところ大だったのだろう、杜甫、陶淵明とともに徂徠を深く愛し、徂徠研究の一人者になった。いろいろやることが多くて自分では無理だが、現在、ほとんど埋もれかかっている徂徠の全集を誰かが編んで、大いに顕彰すべきだということが随筆類に述べられている。もちろん、吉川京都学派はその後も専門家を志す学生らには漢文を中国語で読解させている。一般向けには訓読で説明しているが、それでも随所に「この字は中国語ではこう読み、かくかくしかじかの意味を持つ」といった説明をしている。これは江戸漢学(東大系)ではあまりやらないこと。もちろん、学部生でも中国語は知っておいたほうがよいし、院生になるには必須となるから、中国語は苦手だから訓読でやろう、というのは通用しない。英語力が必要なのも言うまでもないが。
徂徠は自著を刊行する際にも、訓点を付けないように命じた。必要上、また平易を旨とする書物には一部訓点がついているが。
このような強烈な主張と信念を持った徂徠だからこそ、どの組織にあっても、下の者も自分というものを持ち、それを上の者に伺うべきだし、上の者もそれを聞き、受け入れる態度が必要だと説く。常に上からの指示命令で下が動くだけの組織は必ず先細りし、上の目を気にして委縮する者ばかりとなって組織が破綻する。徂徠は政治の世界こそこのようでなければならないと言いたいわけである。
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