1945年8月24日
1945年8月24日 昭和20年
【内 閣】
東久邇宮稔彦王内閣
総理 東久邇宮稔彦王/外務 重光葵/内務 山崎厳/大蔵 津島壽一/陸軍 東久邇宮稔彦王(兼)/海軍 米内光政/司法 岩田宙造/文部 松村謙三(兼)/厚生 松村謙三/大東亜 重光葵(兼)/農商 千石興太郎/軍需要 中島知久平/運輸 小日山直登/国務 近衞文麿、緒方竹虎/内閣書記官長 村瀬直養/法制局長官 高木惣吉。
【宮中主要官】
内大臣 木戸幸一/宮内大臣 石渡荘太郎/枢密院議長 平沼騏一郎/枢密院副議長 清水澄
【軍部高官】
[陸 軍]
陸軍次官 若松只一/軍務局長 吉積正雄/参謀総長 梅津美治郎/参謀次長 河辺虎四郎/教育総監 土肥原賢二
[海 軍]
海軍次官 多田武雄/軍令部総長 豊田副武
【植民地高官】
朝鮮総督 阿部信行/台湾総督 安藤利吉/関東軍総司令官 山田乙三/樺太庁長官 大津敏男/南洋庁長官 細菅戊子郎
【東京都長官】
西尾壽造
【首 長】
大阪府知事 新居善太郎/大阪市長 (不在)/京都府知事 三好重夫/京都市長 篠原英太郎/北海道庁長官 熊谷憲一/青森県知事 金井元/岩手県知事 宮田為益/秋田県知事 久安博忠/宮城県知事 生悦住求馬/山形県知事 篠山千之/福島県知事 石井政一/茨城県知事 友末洋治/栃木県知事 相馬敏夫/群馬県知事 高橋敏雄/千葉県知事 斎藤亮/埼玉県知事 関外余男/神奈川県知事 藤原孝夫/山梨県知事 谷川昇/新潟県知事 畠田昌福/富山県知事 岡本茂/石川県知事 平井章/福井県知事 宮田笑内/長野県知事 大坪保雄/静岡県知事 菊池盛登/愛知県知事 古井喜實/岐阜県知事 沖野悟/滋賀県知事 稲田周一/奈良県知事 小田成就/三重県知事 清水重夫/和歌山県知事 小林千秋/兵庫県知事 持永義夫/岡山県知事 小泉梧郎/広島県知事 高野源進/山口県知事 上田誠一/鳥取県知事 高橋庸弥/島根県知事 山田武雄/香川県知事 田中省吾/徳島県知事 岡田包義/愛媛県知事 土肥米之/高知県知事 栗原美能留/福岡県知事 山田俊介 /佐賀県知事 宮崎謙太/長崎県知事 永野若松/大分県知事 中村元治/宮崎県知事 安中忠雄 /熊本県知事 曽我梶松/鹿児島県知事 柘植文雄/沖縄民政府・沖縄諮詢会委員長 志喜屋孝信
ソ中友好同盟条約発効。
ソ連軍、平壌(ピョンヤン)を占領。
軍需省、電力制限を撤廃。
松江市で、徹底抗戦を掲げる皇国義勇軍48人が蜂起。直ちに鎮圧される。
八高線・多摩川鉄橋で列車が正面衝突。復員兵ら105人死亡。
八高線列車正面衝突事故。1945年(昭和20年)8月24日 7時40分頃八高線小宮駅 - 拝島駅間の多摩川橋梁中央部において上り6列車(8850形8869号機牽引・客車5両編成)と下り3列車(8850形8853号機牽引・客車5両編成)が正面衝突し、客車が川に転落。少なくとも105名の死亡、67名の重軽傷者が確認された。終戦直後の混乱期のため、列車は通勤通学客に復員兵や疎開先からの帰宅者も加えて満員で、その多数の乗客が衝突により多摩川の濁流に流された。当日は激しい雷雨により多摩川が川幅いっぱいに増水していたこともあり、遺体が海まで流されて確認されなかった死者も相当数いるのではないかと言われている。原因は、小宮駅 - 拝島駅間での列車の運転の連絡不備による人為的なものとされている。当日は朝から暴風雨で、さらに信号故障、激しい風雨が原因と見られる通信途絶が重なり、駅間の連絡が取れないためダイヤが大幅に乱れていた。小宮駅では通信途絶で通票閉塞が使用できなかったため、代用閉塞の一つである指導式により列車を運転することとし、上り列車の指導員となる駅務員を徒歩で拝島駅へ向かわせた。ところがその後八王子から小宮に下り回送機関車が到着し、さらに下り旅客列車が続行するとみられたことから、小宮駅長は下り旅客列車を先行させることとし、その旨の連絡を携えた別の駅務員を機関車に乗り込ませて拝島駅に派遣した。機関車は途中で先に出発した駅務員を拾い上げ拝島駅に到着したが、拝島駅は第1の駅務員の連絡を正とし、それと矛盾する第2の連絡は列車番号の誤記だと解釈した。結果として拝島駅では最初の連絡に従い上り列車を小宮駅に向け発車させ、小宮駅では変更した運転順序の連絡ができていると思い込み、下り列車を拝島駅に向け発車させた。本来、指導式は、閉塞区間両端駅の駅長が相互に連絡を取り、閉塞区間内に列車が無いことを確認した上でタブレット(もしくはスタフ)の代替となるただ1人の指導員を列車に添乗させて運行する方式である。つまり、その区間で一人だけ選任される指導員の乗った列車のみがその閉塞区間内を運行可能となるが、この時は原則に反した取り扱いがなされるとともに、双方の駅長が連絡が不十分で、両者の思い込みが食い違ったために正面衝突事故を引き起こした。2001年に当時の車両の車輪が川の中州から引き上げられ、2004年に河原の公園脇に設置された(由来が当事故以外には考えられないため、当事故の遺物と認知されている)。
浮島丸事件。朝鮮半島出身者4千人を釜山へ送還中の浮島丸が米軍が敷設した水雷により舞鶴港で爆沈。死者550人。
浮島丸事件は、太平洋戦争終戦の日の後の1945年8月24日17時20分頃に、舞鶴港の京都府舞鶴市下佐波賀沖300mの地点で、日本海軍特設運送艦浮島丸(4,730総トン、乗組員255名)が、3,725名の朝鮮人と乗組員らを乗せて航海中に、アメリカ軍が敷設していた2,000ポンド音響式機械水雷(舞鶴鎮守府舞鶴防備隊報告)に触雷して沈没、乗組員25名(戦死扱い)と便乗者524名の死者をだした事件。青森県の大湊港より釜山へ向かう往路、舞鶴寄港時に発生した。沈没原因について様々な憶測を呼んだ事件であるが、実際には当初より触雷による沈没が原因だと日米両国で公式に認められている。ただし、終戦直後の混乱期でもあり、便乗者の数は公式記録より多い可能性がある。
浮島丸は終戦時、青函連絡船の代用として使用されていた。そして、終戦直後に「朝鮮の邦人難民の移送と、可能であれば発送準備済みの食糧を積み込む様に」との極秘命令を海軍省より受けたとされる数隻の輸送船の一つという。ところが、出港前に大湊警備府の要請により朝鮮人労働者とその家族の便乗が問い合わされた。海軍省運輸本部は「浮島丸使用差支ナシ」とした。下士官の一部はこの命令に不服をとなえたが、大湊警備府が強硬に命令した結果、浮島丸は3,725名(更に便乗者を乗せたという推測がある。)の便乗者を乗せて8月22日午後10時頃、大湊港を出港。機雷と潜水艦を警戒(停戦後だが、8月22日に艦船3隻が国籍不明潜水艦に撃沈破されており(三船殉難事件)、浮島丸も潜水艦の活動は知っていた)するために、日本本土沿岸部ぎりぎりを航行して朝鮮釜山港へと向かった。だが、連合国軍司令部は8月25日午前零時以降の100トン以上の船の航行を禁止し、航行中船舶の最寄港への入港を指示、浮島丸出港後に海軍運輸本部から大湊警備府及び浮島丸艦長あてに、同月24日午後6時までに目的港に到着する見込みがないものはその日時までに最寄りの港に入港することを命じる旨の入電があり、自艦の位置、乗船者の数、機雷の掃海による安全性、潜水艦の活動などを考慮した結果、航路の途中にある舞鶴への入港が決定された。舞鶴寄港の連絡は大湊へ伝えられ、さらに舞鶴へと連絡されるはずだったが、無線状況がうまくなく、結果として舞鶴で浮島丸を出迎えるはずの掃海艇が準備されなかったという(艦橋勤務の乗員の話では当時の主力だった漁船型の木造掃海艇(第一号型駆潜特務艇・第一号型哨戒特務艇)2隻が航路を先導指示したという)。また、浮島丸船内では舞鶴寄港時に航海要員以外の陸海軍軍人も下船することとなり、急遽の事態に船内が非常に慌しかったという。
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