1945年8月22日
1945年8月22日 昭和20年
【内 閣】
東久邇宮稔彦王内閣
総理 東久邇宮稔彦王/外務 重光葵/内務 山崎厳/大蔵 津島壽一/陸軍 東久邇宮稔彦王(兼)/海軍 米内光政/司法 岩田宙造/文部 松村謙三(兼)/厚生 松村謙三/大東亜 重光葵(兼)/農商 千石興太郎/軍需要 中島知久平/運輸 小日山直登/国務 近衞文麿、緒方竹虎/内閣書記官長 村瀬直養/法制局長官 高木惣吉。
【宮中主要官】
内大臣 木戸幸一/宮内大臣 石渡荘太郎/枢密院議長 平沼騏一郎/枢密院副議長 清水澄
【軍部高官】
[陸 軍]
陸軍次官 若松只一/軍務局長 吉積正雄/参謀総長 梅津美治郎/参謀次長 河辺虎四郎/教育総監 土肥原賢二
[海 軍]
海軍次官 多田武雄/軍令部総長 豊田副武
【植民地高官】
朝鮮総督 阿部信行/台湾総督 安藤利吉/関東軍総司令官 山田乙三/樺太庁長官 大津敏男/南洋庁長官 細菅戊子郎
【東京都長官】
西尾壽造
【首 長】
大阪府知事 新居善太郎/大阪市長 坂間棟治/京都府知事 三好重夫/京都市長 篠原英太郎/北海道庁長官 熊谷憲一/青森県知事 金井元/岩手県知事 宮田為益/秋田県知事 久安博忠/宮城県知事 生悦住求馬/山形県知事 篠山千之/福島県知事 石井政一/茨城県知事 友末洋治/栃木県知事 相馬敏夫/群馬県知事 高橋敏雄/千葉県知事 斎藤亮/埼玉県知事 関外余男/神奈川県知事 藤原孝夫/山梨県知事 谷川昇/新潟県知事 畠田昌福/富山県知事 岡本茂/石川県知事 平井章/福井県知事 宮田笑内/長野県知事 大坪保雄/静岡県知事 菊池盛登/愛知県知事 古井喜實/岐阜県知事 沖野悟/滋賀県知事 稲田周一/奈良県知事 小田成就/三重県知事 清水重夫/和歌山県知事 小林千秋/兵庫県知事 持永義夫/岡山県知事 小泉梧郎/広島県知事 高野源進/山口県知事 上田誠一/鳥取県知事 高橋庸弥/島根県知事 山田武雄/香川県知事 田中省吾/徳島県知事 岡田包義/愛媛県知事 土肥米之/高知県知事 栗原美能留/福岡県知事 山田俊介 /佐賀県知事 宮崎謙太/長崎県知事 永野若松/大分県知事 中村元治/宮崎県知事 安中忠雄 /熊本県知事 曽我梶松/鹿児島県知事 柘植文雄/沖縄民政府・沖縄諮詢会委員長 志喜屋孝信
ソ連軍、旅順・大連を占領。
大蔵省、軍事融資打ち切り、産業資金融資方針を決定。26日 通達。
樺太からの引揚げ船・泰東丸・小笠原丸・第二新興丸がソ連のL12潜水艦の雷撃で沈没。死者行方不明1708人
戦時中禁止されていた天気予報のラジオ放送が4年ぶりに復活。翌日には新聞でも復活。
降伏終戦に反対して15日から愛宕山に籠城していた尊攘同志会会員ら12人が手榴弾で自決。
国鉄肥薩線のトンネル内で蒸気機関車が牽引する列車が勾配を登り切れず停車。乗客が列車を降りてトンネル内を歩いている所に列車が後退し、53人が轢死。
肥薩線吉松駅 - 真幸駅間の山神第二トンネル内において、蒸気機関車(D51形)牽引(もう1両のD51が後押し)の上り人吉方面行き列車が勾配を登り切れず停車。先頭の本務機はトンネルから出たものの、排煙の充満するトンネルの中で客車や後補機が立往生する事態となり、排煙を逃れようと線路に降りた乗客がトンネル内を歩いていたところ、同じように排煙から逃れようとブレーキを緩めて後退してきた列車に次々と轢かれ、53名が死亡した。事故列車は大勢の復員兵を乗せるため、一般客車5両の後に「代用」として無蓋貨車を8両連結していた。貨車には当然車内放送設備がないため車掌から注意を喚起できず、また後補機の乗員も排煙にむせ返って指示を出せない状態であった。そのため何が起きたか理解できなかった乗客は歩いて避難しようとしたが、狭い当該トンネルでは線路上を歩かざるを得ず、また当時はトンネル内に照明もなかったため、列車の後退に気づくのが遅れ、次々に轢かれてしまった。客車の屋根までも鈴なりの乗客という超満員の列車であった上、熱量の低い粗悪な石炭、整備が行き届かず疲弊した機関車という悪条件、狭く待避場所の少ないトンネル、乗客への案内の不備など複合要因による事故で、戦争による総合的な運行システムの疲弊と劣化が遠因にあった。山神第二トンネルの人吉側出口には1963年に慰霊碑が建立され、事故の翌年から毎年8月22日には慰霊行事が行われている。
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