政談302

【荻生徂徠『政談』】302

(承前) 小笠原佐渡守は殊の外に軍法を心掛けた方と承知している。綱吉公の頃、道の途中で人の混み合う所があると、常に供廻りを一列にして、道の脇を素早く通り、見る人はとても感じ入ったものだ。今のように備えを幅広く仕立てて、供が終わるとそのまま打ち捨てるといったことは軍法の法の字にとらわれ、武家の作法はこうであると決めつけたもので、武道が衰えた証拠である。操練の法に熟練すれば、このように拘るものではない。まして太平の世ではよくないことである。


[解説]小笠原佐渡守長重(三河吉田城主)は硬骨漢で、綱吉の時に柳沢吉保を、次の家宣の時に間部詮房(まなべあきふさ)を、それぞれ側用人だったのに重用して権勢が絶大になったのが我慢できず、綱吉の時にはその人選に抗議し、家宣の時には老中を辞任した。新参の者が側近となり、家康以来の譜代の者が軽んじられる風潮が耐えられなかったのである。そんな佐渡守の逸話として、大名行列を仕立てて行進中、道が混雑している時は威張って「どけ!」と威圧するのではなく、すぐに供廻りの隊列を一列縦隊にして、道の脇をすばやく通らせたという。これにより庶民を含めて道にいる者たちに迷惑をかけず、いらぬ喧嘩沙汰にもならず、自分たちも早く進むことができた。今は大名風吹かせて威圧し、相手がどくまでわざと立ち止まって因縁をつけるといったことが横行しているが、こういうのは武士の心得ておくべき軍法に悖る行為であり、武道とは臨機応変であることを再確認している。武士道という言葉も概念もこの時期には存在しないが、武道というものはあった。その一端がここに示されている。


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