政談297
【荻生徂徠『政談』】297
(承前) しかるに荒井筑後守(あらいちくごのかみ=新井白石)という者の申し上げることを六代家宣公が御採用なされてから、何事も五代綱吉公の時に定めたものの多くを改められた。内曲輪の笠着用の件もその一つ。江戸市中すべてを統制するのが困難であることから、内曲輪に限って押さえたのであろう。主人への礼儀であるなら、上下ともに笠を脱ぐはずなのに、供の者ばかりに脱がさせるのは聞いたことがない。丸の内は大名の居住区域だから、大名に対する礼か。されば、大名の家来が馬上ではかぶるのはいかなることか。内曲輪だけで君臣の礼を立てるなど、これも聞いたことがない。下々の者たちの主人に対する礼儀であるなら、主人の気持ち次第でかぶらせたり脱がせたり随意でよいのに、公儀より目付を以て触れを出すなど、これもまた聞いたことがない。内曲輪は目付の担当でかぶらせないことにしてからは、今は下々も主人への礼儀でかぶらないという意義を忘れて、外曲輪では主人がかぶれと言わなくてもかぶることにして、一同かぶってしまう。
こういったことは些細なことだが、世の移り変わるに従い、何事も理筋を取り違え、目付などの担当ではないことまでいかめしく触れを出すことが重なれば、上を侮る心が下の者に生じてしまう。これは改めなければならない。
[解説]徂徠と白石はライバルで、しかも重用した将軍が別々であることから、対抗意識も一入(ひとしお)だった。徂徠は綱吉に重用され、なにかと徂徠の提言が聞き届けられたが、次の家宣は即位早々、綱吉の時代の法令の大半を停廃止させ、白石を重用した。筑後守という官位もあるように、白石は旗本(幕臣)であり、れっきとした政治家だった。この点では徂徠は年長であるにもかかわらず身分が下で、引け目となった。白石も武士とはいえ身分的には低かったものの、侍講(じこう=学問上の指南役)であり、実力者で側用人の間部詮房(まなべあきふさ 家格により老中格でしかなかったが、実権を握り、大老のような存在だった)と重く用いられたことから、徂徠にすれば、せっかく綱吉の代に本来あるべき姿に整えた制度・習慣が次々と変えられてしまったことがよほど頭にきたらしく、吉宗に対して、君臣の礼にもとづくものは元の姿に戻し、一律に規則として定めたお触れはやめるように進言した。白石は吉宗即位とともに失脚していたが、笠に関する触れは続いていたようで、徂徠にとっては珍しく感情的なまでに白石の名を出して批判している。
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