政談291
【荻生徂徠『政談』】291
(承前) 真の治めというのは、わが支配下・組中は上より預け置かれたものであるから、末々まで一人も見捨ててはならぬという覚悟で苦労をし、世話も焼くことである。これを聖人の道では「民の父母」という。これは仁の道である。仁といっても、朱子学の儒者たちの言うように、下を憐み、慈悲をかけるといったことだけではない。また、誠を以て下を扱い、理によって扱うということでもない。父母が我が子に接するには、叩きもする、折檻もする、だますこともする。面倒をよく見て、我がことのように苦心し世話をして、下の人が成り立つようにすることである。治めの結果は、上にも外にもすぐには見えない。年月を経て後、その治めの良い点と悪い点が明らかとなる。されば、よく身を入れて、人からどのように見られ、言われようとも、気にしないようにすることが大切である。
[語釈]●民の父母 『詩経』小雅の南山有台(なんざんゆうだい)に「楽しき君子は民の父母」、『書経』泰誓上に「元妃、民の父母と作(な)る」とある。かなり古くから使われた言葉のようで、『孟子』 をはじめ、政治について述べている話でよく引き合いに出されている。為政者は民の父母たるべき者であり、民をしっかり教化教導するとともに、困窮していれば全力で救わなければならない、まさに親のような存在であり、また、そうあらねばならぬとする。兄弟がいて、親が「この子はかわいいが、この子は嫌い」などと言って、好きな子ばかりによいものをたくさん食べさせ、嫌いな子には水ぐらいしかやらない――そんな親はいない。分け隔てなくかわいがり、慈しむものである。とはいえ、昨今は育児放棄をし、長い期間にわたり劣悪な環境に監禁して虐待する親の例が相次ぐほか、継子(ままこ)いじめとなると昔からたくさんあり、親だから本能で子をかわいがるかというと、そうでもない人もいる。しかし、それはそれ。政治家も同じで、情においては好かぬ市民がいても、全体を統治し、ましてや選挙で信任され、税金を預かる身としては、好き嫌いは度外視しなければならないし、それができない者、すぐに個人的な感情が先に立ち、「誰それには保護する必要はない」「面倒を見ることはない」といった態度をとる者は公人として不適格である。最近は個人的な感情を前面に出して、自分があたかも特権階級で市民を養っているかのように錯覚している政治家を見かけるが、なぜそうまでして自分を高みに置きたいのか、市民を虫ケラのように見下したくなるのか。心になにか闇があるように思えてならないが、政治家はそういうのを少しでも取り除くためにあるので、自分に鬱屈したものがあるから、それを他の人たちにも味わわせようなどと思うのであれば、とても「民の父母」とはいえないし、人としてどうかと思う。
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