1945年7月20日
1945年7月20日 昭和20年
【内 閣】
総理 鈴木貫太郎/外務 東郷茂徳/内務 安倍源基/大蔵 広瀬豊作/陸軍 阿南惟幾/海軍 米内光政/司法 松阪広政/文部 太田耕造/農商 石黒忠篤/軍需 豊田貞次郎/運輸 小日山直登/大東亜 東郷茂徳(外相兼任)/厚生 岡田忠彦/国務 桜井兵五郎/国務 左近司政三・国務(情報局総裁)・下村宏・安井藤治/内閣書記官長 迫水久常/法制局長官 村瀬直養
【宮中主要官】
内大臣 木戸幸一/宮内大臣 石渡荘太郎/枢密院議長 平沼騏一郎/枢密院副議長 清水澄
【軍部高官】
[陸 軍]
陸軍次官 富永恭次/軍務局長 吉積正雄/参謀総長 梅津美治郎/参謀次長 河辺虎四郎/教育総監 土肥原賢二
[海 軍]
海軍次官 多田武雄/軍令部総長 豊田副武
【植民地高官】
朝鮮総督 阿部信行/台湾総督 安藤利吉/関東長官 山田乙三/樺太庁長官 大津敏男/南洋庁長官 細菅戊子郎
【東京都長官】
西尾壽造
【首 長】
大阪府知事 新居善太郎/大阪市長 坂間棟治/京都府知事 三好重夫/京都市長 篠原英太郎/北海道庁長官 熊谷憲一/青森県知事 金井元/岩手県知事 宮田為益/秋田県知事 久安博忠/宮城県知事 生悦住求馬/山形県知事 篠山千之/福島県知事 石井政一/茨城県知事 橋本政実 /栃木県知事 相馬敏夫/群馬県知事 高橋敏雄/千葉県知事 斎藤亮/埼玉県知事 福本柳一 /神奈川県知事 藤原孝夫/山梨県知事 谷川昇/新潟県知事 畠田昌福/富山県知事 岡本茂/石川県知事 平井章/福井県知事 宮田笑内/長野県知事 大坪保雄/静岡県知事 菊池盛登/愛知県知事 古井喜實/岐阜県知事 沖野悟/滋賀県知事 稲田周一/奈良県知事 小田成就/三重県知事 清水重夫/和歌山県知事 小林千秋/兵庫県知事 持永義夫/岡山県知事 小泉梧郎/広島県知事 高野源進/山口県知事 上田誠一/鳥取県知事 高橋庸弥/島根県知事 山田武雄/香川県知事 田中省吾/徳島県知事 岡田包義/愛媛県知事 土肥米之/高知県知事 栗原美能留/福岡県知事 山田俊介 /佐賀県知事 宮崎謙太/長崎県知事 永野若松/大分県知事 中村元治/宮崎県知事 安中忠雄 /熊本県知事 曽我梶松/鹿児島県知事 柘植文雄/沖縄県知事 (不在)
アメリカ軍が模擬爆弾・パンプキン爆弾による原爆投下訓練を開始。
パンプキン爆弾(かぼちゃ爆弾、Pumpkin bomb)は、第二次世界大戦中にアメリカ軍が開発、使用した爆弾。1945年8月9日に長崎に投下された原子爆弾(原爆)「ファットマン」の模擬爆弾として知られる。単に「パンプキン」と呼称される場合も多い。正式名称は「1万ポンド軽筒爆弾」。「ファットマン」とほぼ同一の形状を有し、重量もファットマンとほぼ同一になるよう調整された模擬原爆で構造分類上での通常型爆弾のコードネームである。マンハッタン計画に携わる、ロスアラモス研究所の科学者と兵士によって命名された。この爆弾は原爆投下に備えた爆撃機乗員訓練のためと、今までに例のない特殊な形状をしたファットマンが爆撃機(原爆搭載可能なように特別に改修したB-29)から投下され爆発するまでの弾道特性・慣性能率等の様々な事前データ採取のためにいわば「模擬原爆」として製作された。
投下の目標とされたのは原爆投下候補地だった京都市、広島市、新潟市、小倉市の各都市を4つのエリアに分けた周辺都市(広島市ならば宇部市、新居浜市など、新潟市ならば富山市、長岡市など)にあった軍需・民間の大規模工場・鉄道操車場等であった。原爆投下候補都市は、原爆による威力を正確に観測するために、事前の空襲は禁止されていたために周辺都市が目標となった。[要出典]1945年7月20日、新潟エリアである富山市・長岡市・福島市]・東京都(実例の一部として、現在の練馬区大泉学園地区、西東京市の西武柳沢駅近辺)へ計10発投下されたのを皮切りに18都道府県30都市に50発(うち1発は任務放棄し爆弾は海上投棄された)が7月20日〜8月14日に投下され] 、全体で死者400名・負傷者1200名を超す被害が出た記録が残っている。1945年7月24日四日市市泊村安政池に着弾し、海軍官舎が被災、29才の母親と8才の二男が死亡。
1945年7月24日 四日市市泊村安政池 模擬原爆着弾地
1945年8月8日四日市市千歳橋付近に着弾、死者2名、負傷者56名。
同日、四日市市塩浜町鈴鹿川堤防左岸(塩浜小学校の東約500m)に着弾、死者2名。
1945年8月8日模擬原爆着弾地 塩浜小学校の東約500m
四日市市への投下は3発とも第二海軍燃料廠を攻撃目標としたものである。7月24日の投下は曇っていたためレーダーによるもの、8月8日の投下は2発とも目視投下であった。(工藤洋三・金子力『原爆投下部隊 第509混成部隊と原爆・パンプキン』2013年8月1日初版)
しかし投下は爆撃手の目視によると厳命されており、天候などの制約があるため、必ずしもその場所に投下された訳ではない。アメリカ軍の資料によれば、前述の目標に投下できない場合には臨機目標としてどの都市でもいいので町の真ん中に落とすようにという指示があったとされる。その為、7月26日の訓練では天候悪化により富山の軍需工場への爆撃に失敗しその帰りに島田市(島田空襲)、焼津市、静岡市、名古屋市、大阪市など軍需工場とまったく関係ないところにまで投下されたというような例もある。搭載機は原爆投下任務時同様にパンプキンを目視にて投下後、速やかに155゜の急旋回・急加速にて回避行動をとることとされた。これは原爆投下後、搭載機を含めた攻撃部隊が爆発(爆風)に巻き込まれることを避けるためである。もっとも、原爆投下任務全てにおいて爆撃機乗員の生命の安全は何ら保障されていなかったようである。戦後、米戦略爆撃調査団はパンプキンに対して「当該爆弾が目標に直撃及び至近弾となった場合、目標に相当量の構造的被害を与える非常に合理的かつ効果的な兵器であった」との評価を下した報告書をまとめている。原爆投下より前の模擬投下は「フェーズI」として行われ、その後「フェーズII」として8月14日に春日井市に4発、挙母町(現豊田市)に3発投下されている。これは戦後にこの爆弾を使用して効果が得られるかどうかのテストとして行われたもので、有効な兵器とされたが生産コストに見合わないとして不採用とされた。そのため、テニアン島に残っていた66発のパンプキン爆弾はその場で海に沈められ破棄された。爆弾の破棄には機密保持の意味もあったとされる。陸軍航空隊のエリートパイロットでB-29「ストレートフラッシュ」の機長であったクロード・イーザリーは、7月20日の訓練で郡山市の天候悪化のため皇居に向けてパンプキン爆弾を投下(昭和天皇の殺害を目論んだとも言われている)するも目標を外し、呉服橋に着弾させている。アメリカ軍は、降伏交渉相手であると同時に日本人に対する心理的影響を懸念し、皇居を狙ったいかなる攻撃も禁止していた為、イーザリーのこの独断行為は命令違反とされた。その為、本来広島への原子爆弾搭載機に指定されていたイーザリーの搭乗する「ストレートフラッシュ」は任務を外され、気象観測機として「エノラ・ゲイ」に随伴する事となった。
佐藤尚武駐ソ大使、国体擁護を唯一の条件として終戦促進を上申。
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