1940年7月16日

1940年7月16日 昭和15年

【内 閣】

総理 米内光政/外務 有田八郎/内務 児玉秀雄/大蔵 桜内幸雄/陸軍 畑俊六/海軍 吉田善吾/司法 木村尚達/文部 松浦鎮次郎/農林 島田俊雄/商工 藤原銀次郎/逓信 勝正憲/鉄道 松野鶴平/拓務 小磯国昭/厚生 吉田茂/内閣書記官長 石渡荘太郎/法制局長官 広瀬久忠

【元 老】

西園寺公望

【宮中主要官】

内大臣 木戸幸一/宮内大臣 牧野伸顕/枢密院議長 原嘉道/枢密院副議長 鈴木貫太郎

【軍部高官】

[陸 軍]

陸軍次官 阿南惟幾/軍務局長 武藤章/参謀総長 杉山元/参謀次長 沢田茂/教育総監 山田乙三

[海 軍]

海軍次官 豊田貞次郎/軍令部総長 伏見宮博恭

【植民地高官】

朝鮮総督 南次郎/台湾総督 小林躋造/関東長官 梅津美治郎/樺太庁長官 棟居俊一/南洋庁長官 近藤駿介

【東京】

府知事 岡田周造/市長 大久保留次郎


陸軍の画策で畑俊六陸相が辞職し、後任の陸相を陸軍が推挙しなかったため、米内内閣が総辞職。

欧州で始まった第二次世界大戦は、ポーランド作戦が終わると約半年にも及ぶ「奇妙な戦争」と呼ばれる不戦期に入っていたが、これが実質的に米内内閣の存続条件となった。しかし1940年(昭和15年)5月にナチス・ドイツのフランス侵攻が始まり、ドイツが破竹の進撃を続けて翌6月にはフランスを降伏に追い込むと、独伊への接近を企図する陸軍は倒閣の意図をいよいよ明確に表し始める。7月4日、陸軍首脳部は「陸軍の総意」として参謀総長の閑院宮載仁親王を通じて畑に陸相辞職を勧告、これを受けて畑は16日に帷幄上奏を行い単独で辞表を奉呈した。米内は後任の陸相を求めたが陸軍三長官会議はこれを拒絶、これで米内内閣は総辞職に追い込まれた。米内は退陣声明の中で「(前略)內外重要國務の遂行につき全力を舉げて努力し來たりたるも、陸軍大臣は近時の政情に鑑み辞表を提出したるにより(後略)」と、それが陸軍による倒閣に他ならないことを明確に述べているが、個人的には決して敵対する関係にはなかった畑陸相に対しては、その単独辞任が彼本人の意思ではないことをよく理解しており、その立場を最後まで崩すことはなかった。戦後極東国際軍事裁判においてA級戦犯被告となった畑がこの単独辞任について厳しく問われた際も、証人として2度にわたって出廷した米内は徹底して曖昧模糊な証言を繰り返して畑をかばい、検事を煙に巻いて畑を極刑から救っている。米内に軍人としての理想像を見出していたと考えられる昭和天皇には、米内について言及した記録が多く残っているが、米内内閣が瓦解した際には木戸幸一内大臣に「米內內閣を今日も尚」信任していること、そして「內外の情勢により更迭を見るは不得止とするも、自分の氣持ちは米內に傳へる樣に」命じていることや、戦後も「もし米内内閣があのまま続いていたなら戦争(対米戦争)にはならなかったろうに」と悔いていたことが知られている。


ハル米国務長官、ビルマルート閉鎖に反対を声明。

ヒトラー、イギリス上陸作戦準備を指示。

国民政府軍事委員会、周恩来を通じて朱徳らに4項の提示案を発する。陜甘寧辺区の取消し、8路軍・新4軍の縮小などを指示。

政友会久原派、解散。

過去の出来事

過去の本日の朝廷や江戸幕府の人事一覧、その他の出来事を紹介します。ほかに昔に関する雑記など。