政談255
【荻生徂徠『政談』】255
(承前) 人を知って人を使う方法は右の通り。しかし「今の世には器量ある人はいないようだ。これは末世となったためであろう。器量ある人がいれば使ってみたなら分かるだろうが、そういう人がいなければ、いくら使ってみてもどうしようもあるまい」と言う人がある。これもまた大いに間違いである。古の天地は古の天地から生じたもので、人の食物も衣服も住居もなんの不足もない。今の天地は今の天地に生ずるもので、これまた何の不足もない。人もまたかくのごとし。今日の天地には今日生ずる人で不足はない。その代相応の器量ある人はいないというのは、道理において決してないのである。
各時代の歴史を見るに、滅亡する王朝を見てみると、その王朝には器量ある人は一人もいないようである。しかし、その王朝を滅ぼして天下を取った人というのは、同じく滅んだ王朝の人である。天から降ってきた人ではない。また、異国から来た人でもない。あくまで滅んだ王朝の人であるが、その人が器量あることを誰も知らず用いることをしなかった。器量のない人を重用したためにその王朝は滅亡した。滅亡させた側では前代で捨てた人を器量を理解して用いた結果、ついには天下を取ることができた。歴代の王朝はみなこのようである。されば、どの世にも器量ある人はいるものである。
[解説]明治時代を開き、築いたのは明治時代の人ではない。江戸時代に生まれ育ち、江戸時代の影響を受けた人たちである。末世の感が強くなった平成の世を構築(同時に破壊)したのは昭和の人間。平成人ではない(昭和と平成を「時代」として区切ることについては疑問視する向きのほうが多いと思うが)。良くも悪くも、次の時代は前の時代の人が立てるもので、どれだけその時代がひどく見えようが、決して人物がいないわけではない。ただ、ある時代、ある政権が次第に腐敗し、弱体化する時は、総じて優れた人物は排斥され、大した人物もいないまま内輪でまとまって保身ばかり考える。ある程度は持ちこたえても、世に容れられなかった器量ある人たちがやがて結集して新たな世(代)を築く。そうはさせまいとして守旧派たる前の王朝・内閣があらゆる手段を使って抑圧するが、すればするほど自分たちに返るばかり。抑圧は自身の弱体化に拍車をかける。そもそもそういうのは人心の離反を招くだけである。
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