政談248
【荻生徂徠『政談』】248
(承前) 名称の目がねというのは、戦場にて功を立て、器量ある人を多く見、多く使うことで筋やきっかけを覚え、その筋やきっかけによって判断する。しかし、古の名称にも人の見間違いはあるもので、良くない人物はおおよそは分かるものの、自分が知った筋やきっかけでしか判断できないため、見知らぬ筋やきっかけを見ても理解できず、このために良い人物を見逃すことになる。
されば、人を知るとは、とにかく使ってみて知ることである。自分の目がねで人を見ようとすると、結局は自分の好みに合った人だけを器量ありと判断してしまう。これは愚の骨頂である。その子細は、上たる人は第一にその身が尊く、育ちが良いために、物事の難儀や苦労をせず、何事も思うがまま。人の智はさまざまな難儀や苦労をする中から生じるものであるから、そういった体験がないと智恵が生じることがない。乱世の名将は生死の場を経てさまざまの艱難を乗り越えるから智恵があるのである。
[解説]人を見る目を持つことは上の者として最も大切なこと。しかし、それには時間をかけなければちょっとやそっと見ただけでは分かるものではない。自分では人を見る目があると思い込んでいても、それが極めて狭い範囲でしか見ていないとなれば、自分の好む人物、目にとまった者しか評価、挙用しないことになる。そこで、上たる者は苦労をし、それによって得られる智恵によって判断すべきであると説く。苦労知らず、総領の甚六タイプは人の上に立つ資格なしということ。これが真理となれば、わずかな時間の面接および書類や筆記程度で採用が決まり、人生まで決まってしまう現代の在り方はいかに乱暴で、良い人物が掬い取られることなく埋もれ、要領のよい、狭量な試験官の気に入った人ばかりが得をする損な世の中であることか、ということになる。試験官にも苦労をして智恵のある人(徂徠の言い方)は少なくないと信じたいが、せっかく良い人が良い人を採用しても、その後は一にも二にも組織のため、組織防衛のための一員となるようでは、むしろ立派な人を組織が殺していることになる。徂徠は先進的な個人主義であるが、そのために今の官界・実業界でも徂徠を評価したり「好きな歴史上の人物」として挙げる人が依然として皆無なのは、それだけ個人主義を認めない風潮が依然として強いことを意味する。就活のための黒いスーツ一色で右へ倣えという風潮もむしろ強まっており、これは採用する側で個性など評価しないことを物語っている。目立つと損、個性は殺して従順であるほうが得と思わせているのが採用する側にある以上、立派な人よりも愚かな者のほうが出世する。その結果が今の「貴人」たちの言動に現れている。
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