1945年6月19日
1945年6月19日 昭和20年
【内 閣】
総理 鈴木貫太郎/外務 東郷茂徳/内務 安倍源基/大蔵 広瀬豊作/陸軍 阿南惟幾/海軍 米内光政/司法 松阪広政/文部 太田耕造/農商 石黒忠篤/軍需 豊田貞次郎/運輸 小日山直登/大東亜 東郷茂徳(外相兼任)/厚生 岡田忠彦/国務 桜井兵五郎/国務 左近司政三・国務(情報局総裁)・下村宏・安井藤治/内閣書記官長 迫水久常/法制局長官 村瀬直養
【宮中主要官】
内大臣 木戸幸一/宮内大臣 石渡荘太郎/枢密院議長 平沼騏一郎/枢密院副議長 清水澄
【軍部高官】
[陸 軍]
陸軍次官 富永恭次/軍務局長 吉積正雄/参謀総長 梅津美治郎/参謀次長 河辺虎四郎/教育総監 土肥原賢二
[海 軍]
海軍次官 多田武雄/軍令部総長 豊田副武
【植民地高官】
朝鮮総督 阿部信行/台湾総督 安藤利吉/関東長官 山田乙三/樺太庁長官 大津敏男/南洋庁長官 細菅戊子郎
【東京都長官】
西尾壽造
【首 長】
大阪府知事 安井英二/大阪市長 坂間棟治/京都府知事 三好重夫/京都市長 篠原英太郎/北海道庁長官 熊谷憲一/青森県知事 金井元/岩手県知事 宮田為益/秋田県知事 久安博忠/宮城県知事 生悦住求馬/山形県知事 篠山千之/福島県知事 石井政一/茨城県知事 橋本政実 /栃木県知事 相馬敏夫/群馬県知事 高橋敏雄/千葉県知事 斎藤亮/埼玉県知事 福本柳一 /神奈川県知事 藤原孝夫/山梨県知事 谷川昇/新潟県知事 畠田昌福/富山県知事 岡本茂/石川県知事 平井章/福井県知事 宮田笑内/長野県知事 大坪保雄/静岡県知事 菊池盛登/愛知県知事 古井喜實/岐阜県知事 沖野悟/滋賀県知事 稲田周一/奈良県知事 小田成就/三重県知事 清水重夫/和歌山県知事 小林千秋/兵庫県知事 持永義夫/岡山県知事 小泉梧郎/広島県知事 高野源進/山口県知事 上田誠一/鳥取県知事 高橋庸弥/島根県知事 山田武雄/香川県知事 田中省吾/徳島県知事 岡田包義/愛媛県知事 土肥米之/高知県知事 栗原美能留/福岡県知事 山田俊介 /佐賀県知事 宮崎謙太/長崎県知事 永野若松/大分県知事 中村元治/宮崎県知事 安中忠雄 /熊本県知事 曽我梶松/鹿児島県知事 柘植文雄/沖縄県知事 島田叡
静岡大空襲。B29・137機が静岡市に空襲。死者1952人。
静岡大空襲は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)6月19日深夜から20日未明にかけて、アメリカ軍のB-29爆撃機137機により旧静岡市(現在の静岡市葵区・駿河区)の市街地が受けた空襲。マリアナ諸島から飛び発ったアメリカ軍第314航空団のB-29大型戦略爆撃機137機は伊豆半島波勝崎付近から本土上空に侵入、伊豆半島上空を北上し、富士山手前上空で旋回し静岡市上空に向かうが、一旦静岡市街上空を通過し、御前崎上空から再び静岡市街上空へと向かった。3時間余りの爆撃で投下された焼夷弾は13,211発、被害は死者1,952名余、負傷者5,000名余、焼失戸数26,891戸に上った。この静岡大空襲を含め、旧静岡市は1944年(昭和19年)暮れから終戦迄に合計26回の空襲を受けている。兵器等製造事業特別助成法(昭和17年(1942年)2月13日法律第8号)に基づき、「住友金属工業プロペラ工場」(高松地区)及び「三菱重工業静岡発動機製作所」(小鹿地区)の二つの官設民営軍用機関連工場の建設が進められた。この建設工事中に弥生時代の登呂遺跡が発見され、伊東忠太達により、短期間の緊急発掘調査が行われたものの、十分な調査を経ずに工事が再開され、翌昭和18年(1943年)には生産が開始された。昭和20年(1945年)3月に東京大空襲(10日)、名古屋大空襲(12日)、大阪大空襲(13日)、神戸大空襲(17日)と日本の大都市を破壊したアメリカ軍は、その後、地方主要都市に目標を移した。アメリカ軍資料によると選定は昭和15年(1940年)国勢調査の人口に基づくものであり、静岡市は15番目であった。同年4月7日の空襲により、住友金属及び三菱重工の両軍需工場は機能を停止していた。空襲時、西伊豆一帯や沼津市、富士市辺りからは駿河湾越しに静岡市街が真っ赤に燃えているのが解ったと云う。 また、山を挟んだ榛原地域などからも静岡市街上空が真っ赤になっているのが見えたと云う。 空襲の後、丸焼けになった静岡市街に米軍機が飛んできて、「早く降伏すれば贅沢ができる」の文字と、御馳走の写真が刷られたビラ(伝単)をばら撒いた。 B-29爆撃機は、富士山を目標に本土へ飛来してくるので、静岡県特に駿河湾沿岸域は、警戒警報や空襲警報がひっきりなしに鳴ったという。また、空襲以外にも駿河湾に進入した米軍艦の艦載機グラマンが、数機編隊で次々と駿河湾沿岸地域へ飛来し、機銃掃射や波状攻撃を行った。工場や港は勿論、農作業中の人達なども狙われ、生産活動は停止。多くの市民が犠牲になったにもかかわらず、軍の命令で被害情報は全て秘密とされた。静岡赤十字病院(追手町8番)の周囲も火の海となり、病院前の街路樹もすべて焼け焦げてしまったが、ただ1本のクスノキが3年後に奇跡的に葉を付けてよみがえり、今も空襲を見届けた生き証人として青葉を繁らせている。毎年6月19日前後の週末、賤機山山頂において慰霊祭が行われている。この際、亡くなった静岡市民の霊を慰めるだけでなく墜落したB‐29搭乗員の慰霊も併せて行われ、日米関係者が出席する合同慰霊祭となっている。
福岡大空襲。B29・239機が福岡市に空襲。死者902人。
福岡大空襲は、1945年6月19日から翌6月20日までアメリカ軍により行われた空襲。福岡県福岡市の市街地を標的にした。これにより1,000人以上が死亡・行方不明となった。アメリカ軍の戦略爆撃の一環として計画。マリアナ諸島を出発したB-29爆撃機の編隊239機は九州を北上して福岡上空に到達。福岡市には高射第4師団博多区隊が駐屯(本部:東平尾)し、高射砲6門で編成された中隊が市内各地に配置され、さらに独立照空第21大隊(本部:筑紫郡春日村、現春日市)が4ヵ所に配置されていた。さらに、中央区輝国や糸島郡高祖山にも高射砲陣地があったという証言がある。敵機襲来と同時に高射砲陣地が応戦するも、友軍機の迎撃は一切無く、また九州兵器(現・渡辺鉄工所本社工場)や博多港など市の北部と東部に防空機能を位置づけていた上、南九州の防空のために一部の高射砲部隊が転戦しており、さらに肝心の高射砲が射高が低く命中しなかったため、福岡市南部の脊振山方面から進入してきた爆撃隊には効果なく、日本時間6月19日23時11分から焼夷弾投下が開始された。博多や天神を中心に爆撃が行われ、東西は御笠川から樋井川まで、南北は博多湾海岸線から櫛田神社・大濠公園までの一帯が焼失した。約2時間の空襲により福岡市の3分の1の家屋が罹災。戦後の調査によれば、市内でもとりわけ奈良屋・冷泉・大浜・大名・簀子の5校区の被害が激しく、死傷者の9割を占め、簀子校区は2軒を残して全ての家屋が全焼するなど、あたり一帯は瓦礫ばかりの焼け野原と化した。そのような中において、1931年に建設された奈良屋小学校(現在の博多小学校の立地)の鉄筋コンクリート製の一校舎は住民の消火活動もあって焼け残り、翌朝から遺体安置所として遺体の身元確認が行なわれた。避難所であった旧十五銀行福岡支店(現在の博多座の立地)の地下室は、停電による扉の不作動で避難民が閉じ込められたうえ、空襲の高熱で水道管が破裂。熱湯と化した上水が地下室に流れ込み、62人が熱死するという惨事も起きた。後日行われた遺体搬出作業には、当時佐世保相浦海兵団輸送班員であった村田英雄も携わった。上述地域のほか、薬院・当仁・新柳町(現在の清川)・平尾・六本松・田島・姪浜など多数の場所も被災。七隈の九州経済専門学校(現在の福岡大学)は学生が勤労動員で休校状態だったが、図書館を焼夷弾が直撃、蔵書約3,000冊もろとも灰燼に帰した。そのため、九州経専は戦後の新制大学昇格の条件に図書館蔵書1万冊があったため、蔵書の確保に学生までが奔走しなければならなかった。また脊振山の山裾に位置する早良郡・糸島郡・筑紫郡の村々も爆撃された。これは脊振山の影を博多湾の海岸線と誤認したためであった。このうち糸島郡雷山村(現在の糸島市雷山地区)では30棟が全焼し、8人の死者を数えた。筑紫郡安徳村(現在の那珂川町北部)では、わずか3世帯しかない瀬戸地区が空襲され、うち1世帯の母屋と納屋が焼失した(集落東側の採石場を標的にしたと考えられている)。日本軍の施設のうち、福岡城址の西部軍司令部や歩兵第124連隊の建築物に被害が出た。しかし同年5月に滑走路が完成していた席田飛行場(現在の福岡空港)には被害はなく、終戦後の同年10月に米軍板付基地として接収されることとなった。空襲の翌日、西部軍司令部に収監されていた連合国軍捕虜が報復処刑された。同様の処刑は原子爆弾投下後の8月10日、終戦の8月15日頃にも行われた。戦災による人的被害のみならず各流の山笠台や法被等が焼失したため、同年の博多祇園山笠は中止となった。終戦後の翌1946年5月25日には「第一回奈良屋復興祭」が開催され、ベニヤ板に太閤豊臣秀吉を描いた子供山笠が焼け野原を舁き回ったが、山笠の本格的な再開は1948年までかかった。福岡大空襲を慰霊して、冷泉公園には戦災記念碑(作:伊藤研之)が1965年に建立され、毎年6月19日午前11時には記念碑前で「福岡市戦災引揚死没者追悼式」が開催される。奈良屋小学校は統廃合で閉校し、焼け残った校舎も取り壊されたが、同じ敷地に開校した福岡市立博多小学校には戦争資料を収集した平和記念室があり、入口は戦災で焼け焦げた旧奈良屋小学校の壁や扉をそのまま用いている。かつて博多区上川端町にあって現在西区今宿に移転した栄昌寺には、「銃後」「自由御」そして「十五(銀行)」に名をかけた「じゅうご地蔵」がある。福岡市各地にはそのほか簀子公園に戦災慰霊碑があり、博多区を中心に複数の戦災地蔵菩薩が建立された。また福岡市立小中学校の一部では6月19日に平和教育を行っている。
[第21爆撃機集団任務]
目標 豊橋都市地域(90.21 - 1224)
参加部隊 第58爆撃団
出撃機数 141機
第一目標爆撃機数 95.2%(136機)
投下弾種類、設定 E-46、AN-M17A1 、 E-28 500ポンド焼夷集束弾:目標上空2500フィートで散開
AN-M47A2 100ポンド焼夷爆弾:瞬発頭部信管付
投下弾トン数 946.4トン
第一目標投弾時刻 0時58分-3時17分
攻撃高度 14800-16000フィート
目標上空天候 雲量7-10
損失機数 0
任務要約 偵察は市の住宅密集地の1.7平方マイル(52%)が破壊されたことを示した。重口径、中口径の高射砲は一般に散発かつ不正確。敵機13機が目撃され、13回の攻撃を行った。1機は撃破不確実。4機が硫黄島に着陸した。5機が爆撃不能。
平均爆弾搭載量:14856ポンド
平均燃料残量:916ガロン
目標 福岡都市地域 (90.35)
参加部隊 第73,313爆撃団
出撃機数 237機
第一目標爆撃機数 92.82%(221機 臨機目標2機)
投下弾種類、設定 AN-M47A2 100ポンド焼夷弾:瞬発頭部信管付き
E-46 ・E-36 500ポンド焼夷集束弾:目標上空2500フィートで散開
投下弾トン数 第一目標1525トン
臨機目標13.3トン
第一目標投弾時刻 23時11分-0時53分
攻撃高度 9000-10000フィート
目標上空天候 雲量:1-3
損失機数 0
任務概要 第73爆撃団の攻撃写真は市の密集地の多数の火災をともなう良い結果を示した。1.3平方マイルの密集地(20%)が破壊された。重口径、中口径の対空射撃は、散発から並、概して不正確。敵機12機を確認、攻撃4回。10機が硫黄島に着陸。14機が爆撃不能。
平均爆弾搭載量:14339ポンド
平均燃料残量:717ガロン
目標 静岡市街地 (90.18)
参加部隊 第314爆撃団
出撃機数 137機
第一目標爆撃機数 91.25%(第一目標125機、臨機目標1機)
投下弾種類、設定 E-46 500ポンド焼夷収束弾:目標上空2500フィートで散開設定
AN-M47A2 100ポンド焼夷爆弾:瞬発頭部信管装着
投下弾トン数 第一目標868.3トン、臨機目標9.6トン
第一目標投弾時刻 0時51分-02時54分
攻撃高度 8000-12000フィート
目標上空天候 雲量0-2
損失機数 2
任務要約 市の大分は破壊された。損害は住宅密集地の66%、2.28平方マイルに及んだ。敵戦闘機18機が目撃され、4回攻撃を行ってきた。小、中、重口径の高射砲は散発的から並程度、一般に不正確だった。数基のサーチライトが目撃された。失われたB29の原因は両者とも不明。11機が投弾しなかった。B29 2機が硫黄島に着陸。
平均爆弾搭載量:15078ポンド
平均燃料残量:954ガロン
目標 下関海峡、新潟、宮津、舞鶴
参加部隊 第313爆撃団
出撃機数 28機
第一目標爆撃機数 100%
投下弾種類、設定 MK-25 2000ポンド機雷 MK-25-36 1000ポンド機雷:各種設定
投下弾数 MK-25 108発
MK-25-36 144発
第一目標投弾時刻 0時32分-1時18分
攻撃高度 8000-10200フィート
目標上空天候 雲量:5-6
損失機数 0
任務概要 投下機雷全発が有効と判断された。下関海峡の封鎖は拡大し、新潟、宮津、舞鶴には再敷設された。高射砲は重口径、散発かつ不正確。敵機6機を確認、攻撃なし。2機が硫黄島に着陸。
平均機雷搭載量:13069ポンド
平均燃料残量:761ガロン
ビルマの政治家アウン・サン・スー・チー(Suu Kyi Aung)生まれる。
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