政談198
【荻生徂徠『政談』】198
(承前) 綱吉公の御代に、奥の物書部屋には、側用人松平右京大夫輝貞と松平伊賀守忠周の下に小姓と小納戸(こなんど)から選ばれた者が配属され、その下に坊主などの類が留役として勤めていた。物書部屋に勤めた者は仕事に慣れていることから今も引き続きいろいろな役に勤めている者が多いが、旗本を使うという本筋からすればよくないことである。
今はどの役でも目付による試験を通じて昇進の道が決まることから、ただ先例や格式を覚え、要領よくやることばかり習得して、才智が育つ状況ではない。その上、目付は本来、非法行為を咎める役なのに、ただ殿中を走り回り、作法に慣れることしかしない。目付はやがて他の役に移るが、非法を咎める癖が残り、どの役も今は顔役といったものがあって、とにかく咎めることばかりする。これも大変よくないことである。
総じて一切の役に頭・助・丞・目を置いて、人をそれぞれ使うこと。その才智ぶりを見て、徐々に昇進させたならば、人材が不足することはない。
[語釈]●松平右京大夫輝貞(まつだいらうきょうだいぶてるさだ) 1665-1747。綱吉の時の側用人。上野(こうずけ)高崎藩主。綱吉の次の家宣の時に側近政治を廃止して側用人はすべて免職となり、封地替え(=左遷)。吉宗が即位し、実務の能力が評価されて返り咲き、老中格に出世した。なお、「大夫」は令(りょう)の制度で職(しき)と呼ばれる役所の長官を指すときは「だいぶ」、五位を授けられた者および大名の家老は「たいふ」と発音する。右京大夫は前者。 ●松平伊賀守忠周(まつだいらいがのかみただちか) 1661-1728。同じく綱吉時代の側用人。丹波亀山藩主→武蔵岩槻藩主→但馬出石(いずし)藩主→信濃上田藩主(初代)。家宣の時に側近制度が悪として松平輝貞らとともに免職、吉宗の時に復権され、京都所司代から老中に出世した。吉宗が能吏として高く評価しており、その死をとても悲しんだ。 ●小納戸 将軍が起居し、政務を行う江戸城本丸御殿中奥で将軍に勤仕して、日常の細務に従事する者のこと。若年寄の支配下で、御目見以上であり、布衣着用を許された。小姓に比べると職掌は多岐にわたり、小納戸の人数は、4代将軍家綱の頃には20人前後、幕末には100人を超えていた。小納戸には、旗本や譜代大名の子弟が召し出された。その他、部屋住や他の役からの転任の場合は、目付を通じて2次、3次の面接がおこなわれ、厳選の後に、将軍が吹上庭で4~5間離れた場所から見て最終決定される。小納戸には、御膳番(この職が将軍の食事の毒味をする)、奥之番、肝煎、御髪月代、御庭方、御馬方、御鷹方、大筒方などがあり、性質と特技により担当を命ぜられた。また、いっそうの文芸を磨くため、吹上庭園内に漢学、詩文、書画、遊芸、天文、武術の学問所と稽古場があり、習熟者は雑役を免ぜられ、同僚の指導にあたった。
[解説]武士の子は武士、農民の子は農民。確かに身分制度の社会だったから、階級は厳然としていた。但し、身分間の移動の道もなかったわけではない。これについては別に述べる。武士の子は武士といっても、戦乱の世とは違い、才智・才覚、つまり知識と教養が第一に問われる。公務員としてはデスクワーク(事務処理)や職掌に対する精励ぶりが問われることから、何もしない、何もできない者は昇進できないし、それでは家の恥ともなる。そこで、どの家でも特に嫡男、世継ぎに対しては早くから教育をした。いよいよ城勤めとなるにあたり、目付などが面接をして、適性を見る。これより前に素読吟味(そどくぎんみ)という武士としてのいわば資格試験のようなものがあり、これは中国の科挙の簡略版ともいえるもの。成人となり、いよいよ見習いとして出仕する前に行うもので、漢文の訓読、解釈をはじめ、行儀作法、立ち居振る舞いまでテストされた。これに通らないと、翌年以降に再受験となり、受かるまで繰り返し受験しなければならない。5回も6回も受けるのはそもそも能力も適性もないことになるし、恥でもあるので、最低でも2回目には通過しなければならなかった。この制度については時代劇ではまったく扱わず、時代小説もよほど詳しいもの以外はほとんど触れないが、泰平の世における人物評価、採用というのは乱世よりも苦労させられる。
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