1945年3月30日
1945年3月30日 昭和20年
【内 閣】
総理 小磯國昭/外務 重光葵/内務 大達茂雄/大蔵 津島寿一/陸軍 杉山元/海軍 米内光政/司法 松阪廣政/文部 児玉秀雄/厚生 相川勝六/大東亜 重光葵(兼任)/農商 島田俊雄/軍需 吉田茂/運輸通信 前田米蔵/国務 町田忠治・緒方竹虎・小林躋造・廣瀬久忠/内閣書記官長 廣瀬久忠(兼任)/法制局長官 三浦一雄
【宮中主要官】
内大臣 木戸幸一/宮内大臣 松平恒雄/枢密院議長 鈴木貫太郎/枢密院副議長 清水澄
【軍部高官】
[陸 軍]
陸軍次官 富永恭次/軍務局長 佐藤賢了/参謀総長 梅津美治郎/参謀次長 秦彦三郎/教育総監 杉山元
[海 軍]
海軍次官 岡 敬純/軍令部総長 及川古志郎
【植民地高官】
朝鮮総督 阿部信行/台湾総督 長谷川清/関東長官 山田乙三/樺太庁長官 大津敏男/南洋庁長官 近藤駿介
【東京都長官】
西尾壽造
【首 長】
大阪府知事 池田清/大阪市長 坂間棟治/京都府知事 安藤狂四郎/京都市長 篠原英太郎/北海道庁長官 坂千秋/青森県知事 大島弘夫/岩手県知事 鈴木脩蔵/秋田県知事 久安博忠/宮城県知事 内田信也/山形県知事 斎藤亮/福島県知事 石井政一/茨城県知事 古井喜実/栃木県知事 相馬敏夫/群馬県知事 石井英之助/千葉県知事 川村秀文/埼玉県知事 福本柳一/神奈川県知事 藤原孝夫/山梨県知事 多湖實夫/新潟県知事 町村金五/富山県知事 西村彰一/石川県知事 平井章/福井県知事 加藤初夫/長野県知事 大坪保雄/静岡県知事 今松治郎/愛知県知事 吉野信次/岐阜県知事 橋本政實/滋賀県知事 菊池盛登/奈良県知事 小田成就/三重県知事 持永義夫/和歌山県知事 小林千秋/兵庫県知事 成田一郎/岡山県知事 小泉梧郎/広島県知事 松村光麿/山口県知事 上田誠一 /鳥取県知事 武島一義/島根県知事 山田武雄香川県知事 小菅芳次/徳島県知事 野田清武/愛媛県知事 雪沢千代治/高知県知事 高橋三郎/福岡県知事 戸塚九一郎/佐賀県知事 田中省吾/長崎県知事 田中重之/大分県知事 中村元治/宮崎県知事 宮崎謙太/熊本県知事 曽我梶松/鹿児島県知事 柴山博/沖縄県知事 島田叡
大日本政治会結成、翼賛政治会解散。
大日本政治会は、1945年(昭和20年)の間に存在した衆議院の院内会派・政治団体。総裁は元陸軍大臣南次郎。略称は日政または日政会。
第21回衆議院議員総選挙以後、全ての国会議員が所属する事になっていた翼賛政治会であったが、1945年に入ると、小磯国昭首相の意向を受けて本土決戦に備えた大政翼賛会・翼賛政治会の改組を準備していた小林躋造総裁(小磯内閣国務大臣)に対する反発が表面化する。これに対して小林総裁は新党結成を公式に表明して事態の収拾を図るが、脱退者が相次いだ。このため、小林に代わる総裁を立てて出直しを図ることとなった。1945年3月30日翼賛政治会は解散され、南次郎を総裁とする大日本政治会が結成された。幹事長には反主流派の岸信介を予定していたが、松岡洋右の総裁擁立を希望していた岸はこれを拒否して護国同志会(後述)に参加してしまう。このため、幹事長には松村謙三、総務会長には金光庸夫、政調会長には勝田永吉(勝田の衆議院副議長就任に伴い東郷実に交代)が就任した。だが、衆議院議員353名の参加を得たものの、翼賛政治会に参加していた貴族院議員は参加見送りを決定し児玉秀雄ら数名が個人参加するに留まり、また先の内紛中に大日本翼賛壮年団出身議員は3月10日に翼壮議員同志会(翼同・21名)を結成、旧翼賛政治会反主流派も3月11日に護国同志会(30名)を結成して合流を拒否、無所属25名・欠員37名を計算に含めると、日政会は衆議院全体では75.7%、欠員者を除くと82.3%を占めるに過ぎず、翼賛体制が本来目指した「一国一党」とはかけ離れたものとなった。南は結成時に「一億国民の総力を迅速に結集して、これを決戦の戦場に直結する」と挨拶をしたが、実際に事績として残されたのは鈴木内閣組閣の際の政務次官・参与官人事を巡って内紛を起こした事と第87帝国議会(6月2日から12日まで)への出席した事のみであった。日本敗戦後に南総裁が辞意を表明すると解散論が高まり、9月7日に代議士会で解散が決議され、7日後に正式に解散されることになった。解散後所属議員の多くは日本進歩党の結党に参加した。
第二次大戦で、ソ連軍がウィーンを占領。
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