佛像圖彙365 付・浄土双六


【365】豹(ひょう) 


 [通釈] 

七 豹 


[浄土双六]20 浄土門(じょうどもん) 


  浄土門とは、浄土教の側から仏教を分類したなかの一つ。この世に生をうけたその身のまま修行を積み、悟りを開くという自力の聖道門に対し、この世では悟りは開かないが、阿弥陀仏の本願力によって阿弥陀仏の浄土に生れて、そこで悟りを開くという他力の実践法のこと。

  その教えを大成した法然上人(源空)は、浄土門について、末法五濁(ごじょく)の世にある愚悪の人間(凡夫)にとって、この往生浄土の教えがただ一つ成仏を可能にする道であって、それが本願他力を信じて念仏を唱えることである、と説いた。

  絵は、極楽浄土へ行くことができる唯一の道、浄土門へと船で向かう人々。浄土教の教えの世界で、現在は末法であり衆生はみな凡夫である。だから浄土門のみが入るべき路である、としています。『無量寿経』第十八願文と『観経』下品下生の文を取意して、一生悪を造ったとしても阿弥陀仏の名号を称えれば往生できる、と解釈し、衆生が悪を起こし罪を造ることは暴風雨のようなもので、だからこそ、諸仏の大慈悲は、衆生を勧めて浄土に帰依させるのだ、としています。ひたすら「南無阿弥陀仏」の名号を唱える専修念仏(せんじゅねんぶつ)が浄土教の立場ですが、一般には修行といえば寒中に水を被ったり滝に打たれる水行(荒行、法華宗に多い)や天台宗のひたすら山道を歩く千日回峰行、静かに坐禅をするかと思えば一日中忙しく動き回るのが行であるとする禅宗、そして真言宗の護摩供など、体を痛めつけるのが修行と思われているだけに、ただひたすら念仏を唱えれば極楽往生ができる、浄土へ行くには浄土門へ行けるように一にも二にも念仏を唱えることであるとする教えは一般人にとっては分かり易く楽でもある。そういったことから浄土教は急速に広まったわけです。もちろん、最初からこういった教えがあったわけではなく、法然らがみずから修行を重ね、経典を熟読研究してたどり着いたものであり、自身、全く修行をせず、否定したわけでもありません。  

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