政談63

【荻生徂徠『政談』】63

(承前) 儒者らの意見と吉保殿の意見が異なり、殿が迷っておられたので、その時私は次のように言上した。「世間で飢饉ともなれば、このようなことは他領でいくらも起きることでござりましょう。しかし、親捨てとなるとめったにないこと。もし、この件を親捨てとして認定し、いかようにでも処罰すれば、他領の手本とはなりましょう。私も殿と同じ考えでござります。しかし、領地からかかる事態が起きるのは、土地を治める代官・郡(こおり)奉行の科(とが)でござる。代官・郡奉行の科は監督する家老の科。となると、その上にも科人が出ることになります。道入の科ははなはだ軽いものと愚考する次第にござる」と。これを聞いた美濃守殿は「もっともじゃ」と言い、一人扶持(いちにんぶち)の給金を与えて所領に戻させ、さらに私をものの役に立つ者として、これ以来重く用いて下さるようになったことである。


[注解]●一人扶持 1日につき米5合を扶持米(ふちまい)として与えること。中士以上の武士は米による現物支給で、武士たちはそれを現金に換えたが、下士ら身分の低い者は現金を支給した。「給金」という言葉はもともとこれを指す。例えば、赤穂浪士のうち、大石内蔵助は家老で1500石、片岡源五右衛門は内証用人(側用人)で350石、堀部安兵衛は馬廻(うままわり=警備担当)で200石というように、石高(こくだか)で示される者はその分の米が給米(扶持米)として領主から頂いたが、下っぱの神崎与五郎は横目(隠密=内偵捜査官)で金5両3人扶持、横川勘平は歩行(かち)で同じく金5両3人扶持といったように、現金を支給されていた。

過去の出来事

過去の本日の朝廷や江戸幕府の人事一覧、その他の出来事を紹介します。ほかに昔に関する雑記など。