政談62
【荻生徂徠『政談』】62
(承前) 綱吉公の御代、美濃守(柳沢吉保)殿の知行所川越にある百姓が田地屋敷すべてを失って暮らしが出来なくなったため、妻に四、五日前に離縁をし、自分は頭を剃り、道入(どうにゅう)という名をつけ、母を連れて当てもなくさまよい歩いていたが、熊谷か鴻巣(こうのす)の辺で母が病気になってしまった。道入は母を道端に捨てて江戸へ向かった。置き去りにされた母を見つけた土地の者たちが母に事情を聞いて川越へ送り返したが、これが道入親棄(どうにゅうしんき=どうにゅうのおやすて)としてたちまち知れ渡った。
これを聞いた美濃守殿は「親捨ての刑はどのようなものがふさわしいか、和漢の先例をとくと調べて提出せよ」と儒者たちに命じた。その時はちょうど私が新参者として美濃守殿に召し抱えられたばかりであった。儒者たちはいろいろ調べ思案し「親捨ての刑は明律(ミンりつ)にも見えず、他の書物にも出ておりませぬ。この者のご処分は「非人」がよろしかろうと存じます。母を連れて食を乞うていたが行き別れになってしまったもので、積極的に親を捨てたとは言い難い。妻を四、五日前に離縁しながら、「乞食」をするまでも母を伴っていたことは、「非人」としては奇特なことであります。おのれは妻とともに家に居て、母を他所へ捨てたならば、これは紛れもなく親捨てです」と一同および私も揃って言上した。しかし、美濃守殿は「いかような事情であろうとも、親を捨てるのは子として忍びないはずじゃ」と納得されない。
どうやらこの話は上さまのお耳にも達していたようで、上さまも私たちと同じお考えのようであったらしい。上さまは朱子学を信奉されており、何事も理学によってご判断なされていた。美濃守殿は禅宗に帰依し、儒学の理というものは平生あまり信向なされなかった。だから納得できなかったのである。
[注解]江戸時代は学者といえば儒者(儒学者)のこと。学とは道を学ぶことで、有名な論語の冒頭の「学んで時にこれを習う」(「学習」という熟語の出典)は、具体的に道について師から学び、復習すること。しかし、一般的な通釈としては、ただ単に学問を学びおさらいをする、というようにされている。それはともかく、儒者は幕府の方針により朱子学の立場を取り、朱子学の解釈によって経書(けいしょ)を講義することになっている。やがて朱子学以外は「異学」とされ、儒者は官立の昌平黌(しょうへいこう)でこれを教えることが禁止された。あくまでここで教えることが禁じられただけで、それを信奉することや、私的に教えることまでは禁止されなかった。もちろん焚書だの弾圧なんてことはなかったわけですが、江戸時代は暗黒社会という思い込みの強い人の中には、これを徹底した思想弾圧、学問の自由を奪ったなどと説明する人がいます。全くの誤りです。
儒者たち、それにまだ召し抱えられたばかりの徂徠は、困窮した農民の行動はたたぢに親捨てとは言えないと判断、時の将軍綱吉もその考えだったのに対し、拠って立つ思想が異なる吉保は、どんな理由であれ、親を捨てるなどとてもできないことで、件の百姓は置き去りにして江戸へ行ったことは明らかに親を捨てたのである、という考え。冷酷なほど法治主義者と言われる徂徠ですが、むしろ吉保のほうが厳しい。自分の領地のことだけになおさら厳しく当たろうとしたのでしょうが。
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